月と雲
俺を打てと命じた最初の主も十分変な人間だと思っていたが、遠い時の向こうにそれを凌ぐ変人がいるなんて思いもしなかった。その変人に叩き起され、人の器を与えられ、時代を遡り、捻じ曲げられた歴史を正す戦に日々明け暮れる事も。
歪んだ時を虱潰しに探り、失いかけた刀を取り戻す、ひたすらその繰り返し。そうして忙しなく役目をこなし本丸に戻れば、今が平和なのかそうでないのか、自分達がいるその“今”が一体いつの時代なのか、面倒事などあらかた忘れてしまえるくらい、今晩も藍のような空を吹く風は澄んで冷たい。
縁側に腰掛け風に髪をなびかせる女、その傍らには一枚の皿。盛られているのは夕餉の後短刀達が取り合っていた団子の残りだろう。
「何をしているんだ、あんたは」
「月が綺麗だね」
「答えになっていない」
「国広の髪の色に似ていると思うんだ」
今の主は少し苦手だ。会話はまともに成り立たないし、その中で何を言い出すのかと思えば、ただの写しでしかない俺を月と重ね合わせる。真作と比べられる事はあっても、月と比べられるなんて事は初めてだ。こんな奴を相手に、どうやり過ごせばいいのかわからない。
大体最初の一振りにこの俺を、山姥切国広を選ぶ時点で変わっているんだ。
美術品として、本分を忘れてしまうほど永い眠りに就いている間いろいろとあったらしい。異形となった刀達が改変した過去は、この間抜けな審神者の時代まで変えてしまったのだという。同じく眠りに就いていた刀剣の殆どが、その過去の渦に飲まれて消えてしまった。辛うじて未来に留まる事が出来た物の想いは、審神者として見出された一人の小娘に託される。だが、芽生えたばかりの力はまだその中の一振りにしか揮う事が出来ず、この刀と共に行く、そう言って……
その時いくら本物の山姥切がいなかったからと、それなら正真正銘の虎徹を手に取っていればよかったんだ。それとも、陸奥守吉行だったら。あいつの元主はこの国の有り方を覆すほどの事を成した男、その男に仕えた打刀となれば仕事ぶりはさぞ評価されたはずだ。
選択肢はあったのにこいつは俺を選んだ。出会った時から今この瞬間まで、言う事成す事俺の想像を超えるのだから理解に苦しむ。
「大体あんたは、こんな寒空の下で何をやっている」
「お団子おいしいよ」
「戸を閉めるぞ」
「待って」
背の方へと、床板に擦れる皿の音だけが静かに響く。そこから取リ上げた竹串を垂れる、みたらしの敢えて焦がした黄金色が月明かりに照らされ艶やかに光った。
「国広も食べない? 疲れが吹き飛ぶよ?」
「……いただく。あんたの相手をしていると疲れてくるからな」
「他の子たちには内緒ね。さ、座って」
「……」
「私、月って好きだな」
会話はそれっきり。月が好きなのはよくわかった、けれどそれにどう返していいのか。生憎、そういう類の趣味は持ち合わせていないんだから仕方ない。俺に出来る事といえば、ただただ甘ったるい団子を噛みしめるくらいだ。
それにしても、月を語るなら歌仙兼定がいた、一緒になって甘味に舌鼓を打つのなら加州清光の方が適任だった。それなのにこいつはどうして俺を……
「あの月、雲に姿を隠して全ては見せてくれないね」
「……冷えるぞ、早く食べて寝所に行った方がいい」
「うん、でももうちょっと見ていたい」
闇夜に満月、薄ら暗く漂う雲。手に持つ珠の柔らを飲み込めば、僅かな沈黙の後に重なる溜息。わかってきた、これは感嘆の溜息。月が綺麗だと見入っているんだろう、それとも団子が美味いのか、もしかしたらそのどちらも。どちらも俺には理解できないが。ただ、今が人肌に優しい季節だったら、意味のわからないこんな時間も悪くはないと思う。
何故そんな事を考えてしまうのか、その理由を己に問い詰める余裕をも、こいつは与えてくれない。姿隠しの布が音を立てその隙に潜り込まれれば、何するんだと追い返すべきところなのに言葉を失ってしまった。何もかもが、近い。月明かりに辛うじて浮かぶ瞳も暗くて本来の色は見えない、夜に似たその中には人の姿をした俺が。目を背けたいはずの器も、この時だけは自分の全てを許せる気がする。
「こうしたら暖かいから。だからもうちょっと、いいでしょ?」
「ッ……」
「あれ、国広の時代の人はこういうことしない?」
「……さあな、そもそも俺は人じゃない……」
「そっか、それもそうだ」
「……」
「ねえ国広、大発見。今夜も月は綺麗で、国広のマントは暖かい。こうしたら全部見られるし、」
人というのは奇妙なものだ。
心の臓が激しく脈打つ、聞こえてしまいそうなくらいに。体中の血が湧き上がるような感覚は戦場での高揚感に酷く似ている、だがどこか心地良い。
「あなたはやっぱり月に似ている」
この身に起こる不思議の数々もこいつの紡ぐ優しい言葉の本心も、その意味を素直に受け取るにはまだ少し時間が掛かりそうだ。