花はさくらぎ
降り立った吉野の山はちょうど頃合いの花盛りで、満月の下で桜の花たちが薄ぼんやりと光っていた。
「どこに行くかと思ったら大将、花見か」
隣の薬研藤四郎が私を見上げた。藍色の香り高い風に薬研の髪はよく馴染む。満月の静かな光で色白の頬も光る。
「願わくは花の下にてだろう」
「何だ、それ?」
聞いてくる薬研と一緒に少し進む。今持っている茣蓙をどこかに引きたい。ここでは少し足元が悪い。
「知らないか、その如月の望月の頃ってやつ」
「知らないな。そういう雅なことを言うなら俺以外に任せてくれればよかったのに」
「何だ、まだ不満なのか」
前を見ていた視線を横にずらせば、いかにも不満そうな薬研がいる。
「私を殺すのが」
私の着ている白無垢の袖が、夜風で少しはためく。桜の枝は重たそうに花びらを散らした。旧暦二月十五日はまだ寒い。左前の着物の裾はいつもと違ってやけにすうすうする。
「不満なんて話じゃない。どこに喜んで主を殺す刀がいる」
「でも大儀だぞ、誇れ」
「俺の逸話は知ってるだろ」
「もちろん」
眉を顰めた薬研はさらに続ける。それを聞きながら、茣蓙の敷ける場所を探す。石がなくて平らなところがいい。それにしても見事な夜だ。なるい空気の中、吉野の山は艶然と笑んでいる。
「大将なら皆喜んで最期に付き合っただろうに、何で主人の腹は通さない俺を選ぶかな」
「でも、そうだな、薬研、お前、焼けたのは本能寺だろう」
「ああ」
「信長は自刃したはずだ。その時にお前を使っていない保証があるか?」
「ないな。……俺っちも兄弟ほどじゃないが炎で記憶が少し足りない」
「だろう。だからいいじゃないか」
薬研はため息をついた。目を伏せたまま語るその目元は、飲ませた酒でやや赤い。
「大体大将はいつも悪趣味すぎるんだ。さっきも皆に万歳三唱なんてさせて」
歴史改変を阻止する立場の私たち自身が、歴史を変えないでいることは少し難しい。ほんの少しくらいならばその影響は水面の波紋のように消えるが、私の犯したほんの少しのミスは取り返しのつかない事態を招いた。それらを『無かったこと』にするためには、私があの時代より前の時代で自裁するしかない。そうと決まってからの身辺整理はそうかからず、ミスから二日でめでたく自裁の日となった。
『さにわあるじの自刎を祝う会』と銘打った宴会を最後に自分の刀剣たちと、少しの知り合いの審神者とで先ほどまでしていた。会のネーミングは勿論私で、最後まで『さにわあるじの死出の旅を見送る会』と迷っていたがまああちらでいいと思う。祝うという語が何ともいい。残った遺産にならない小遣いでつくって配った、『祝自裁』の文字入りの紅白まんじゅうも気に入っている。私の最後の晩餐になったそこには蘇からアルギン酸ナトリウムのパスタ、駄菓子から寿司まで私の好物が時代を問わず置いてあった。あまり不覚になると自刃に支障をきたすからと用意しなかった酒がどこからか出回り始めてからは皆正体を無くしてしまって、このままでは酒を飲んで寝て二日酔いの朝を迎えてしまうと思い、縋りつく刀や人間を振り払ってタイムマシンに乗ったのだが、その時見送る全員が酒も入ったせいだろう、今生の別れに涙していた。あまりに辛気臭かったので、つい万歳三唱を強要して三本締めで締めてから来たのだが、あれを今になって咎められているのか。こうやって自分の趣味に何かを言われるのも最後かと思うと少し懐かしくて口元が緩む。
「ん、ここかな、早く死なないと死体処理に頼んだヤツが来る。お前もそいつについていくんだよ」
そう言いながら見繕った場所に茣蓙を敷く。私の刀剣たちの後は宴会に呼んだ審神者たちに託した。その中でも一等仲の良かった人が、自刃した後の私の体を片付け薬研を引き取ってくれることになっている。
「なに、私が一番信頼している奴だ。薬研も演練で会ったことがあるだろう」
私は茣蓙に座って荷物を開いたが、薬研は横に立ったままだった。月明かりの下影のできているのは彼の腰に差した刀だけなので、光源には困らないがやや落ち着かない。でもとりあえず筆ペンと短冊を持った。
「大将、何をしているんだ?」
「実は辞世の句がな、まだ決まってない」
「それは俺っちに相談されても困るぜ。そうだ、そんなもんより遺言は良いのか。大将の時代には要るんだろう。アレがないばかりに揉めることは多いぜ。まあ、あっても揉めるんだが」
「タイムトラベル自体が確実に安全といえないから、私達は既に現代で遺言を書いているし、形見分けもさっき全部済んだよ」
妙なところで優柔不断だから、あのミスも招いたのだろう。考えていた言葉の候補を絞り、短冊に書きこむ。
「大将、何か最後に食いたいもんとか見たいもんはねえか、死んじまったらおしまいだ」
「さっき十分食わせてもらった」
「まだ若いんだからやり残したこともたくさんあるだろ」
「無いとは言わないし死ぬのも怖いが、まあ覚悟の上だからな」
「大将、何でオレがここにいるか知ってるか、実は全員から頼まれてるんだ。大将を説得してくれって」
「お役目なんだ」
「なあ、大将、本当に」
「薬研、膝を貸してくれ」
薬研の言葉を遮って、茣蓙の上に正座させる。その膝の上に頭を載せれば月が、桜が、のぞき込む薬研が見える。視界に広がる月明かりと花明り。薄紅色の花びらが涙みたいに静かに降る。とある戦いに手こずり、私の時間で二週間ほど桜吹雪を見続けたときには流石に桜にも飽きたと思ったが、そうでもなかったようだ。これが最後の現世ならば悔いはない。父さん、母さん、"先立つ不孝"をお許しください。父母どころか顔の知ってる親族の一人も生まれていない時代でそんなことを嘯く。
震える薬研の手が握りしめている短刀を奪い取った。ずらりと抜けば月光でひらめく刃。目を細めて眺める。ああ、この刀だ。
「一度これで死んでみたかった」
「一度しかないだろ!」
「そうだ、一生に一度だ、付き合え薬研藤四郎」
私の肩に添えられた手は先ほどよりもずっと震えていて、力の込められた肩の骨が痛い。腹は通さなくても喉なら通すだろう。首に布を巻いて血が飛ばないようにして切っ先をそこに当てる。懐紙は用意したが血を拭きとってやれるだろうか。頬をなまあたたかい夜風が撫でていく。天の紫に月の影、吉野の山は春景色。匂いたつよな花の雲。これで幕なら上々だ。そして目を閉ざしても聞こえてる、何より冥土の土産にふさわしい、私を呼んでる涙声。