迷い桜
貴方を見る度に、胸が痛みました。
貴方と話す度に、胸が高鳴りました。
貴方が笑う度に、胸が締め付けられました。
ずっと、何時までもこうして居たいと思ってしまうくらい、夢の様な日々でした。何時か来る終わりがこんなにも恐ろしいと思った事はありませんでした。
貴方が、大好きでした。
綺麗なもんだな、と主が愛おしそうに呟いたのを聞いて、石切丸は縁側から庭を眺めた。柔らかな春の陽射しを受けて、小さな野花が其処彼処に庭を彩っている。
しかし、誠に圧巻されたのは庭に植えられた枝垂れ桜の数々だった。重みに耐え兼ねて垂れ下がる枝にはみっしりと薄紅色の花が付いている。
「もうすっかり春だね。ついこの間まで、地面を雪が覆っていた様な気がしたんだけど」
「季節の移り変わりなんてのはそんなもんだろう。日が暮れるその瞬間に気付かない様に、人の目が季節の変わり目に気付く事は無いのさ」
最も、あんたは人間じゃなくて神様なんだけどな、と主は笑い、石切丸に背を向けて歩き始めた。相変わらず、何処か俳人めいた事を言う。小さく笑い、同じ様にその場を立ち去ろうとした時。
枝垂れ桜の下に立つ、少女の姿を見付けたのだ。
おや、と石切丸は目を丸くする。
この本丸は主を含めて全員が全員男ばかりで女は一人も居ない。居る筈がない。
桜の花と同じ薄紅色の着物を身に纏い、柔らかな栗色の髪を揺らしながら遠くを眺める少女は、石切丸の視線に気付いたのかパッと振り返った。大きな丸い瞳が、落ちてしまいそうな程に開かれる。白い肌がぽっと色付き、あたふたと慌てふためいてきょろきょろと辺りを見回した。
「もし、君は‥‥」
「あ、あの!あのあのあの、ご、ごめんなさい‥!!」
石切丸が声を掛けて手を伸ばすと、彼女は頭を下げて叫んだ。瞬間、強い風が石切丸を包み込む。
咄嗟に手を顔の前に翳して目を閉じる。風が止み、ゆっくりと目を開いた石切丸の視界には、物言わぬ枝垂れ桜が広がるばかりで少女の姿は何処にも無かった。
鼻を擽る花の香り。もしかして、彼女は自分達と同じ存在なのかもしれないと、石切丸はふ、と笑みを零した。
次は、きちんと会話をしてみたいものだと息を吐きながら。
***
何時もの様にぼんやりと景色を眺めていると、視線を感じました。それは、私の上にある桜では無くて、真っ直ぐ私に向けられたものでした。
吃驚して振り返ると、柔らかな萌葱色の狩衣に身を包んだ優しげな男性が、不思議そうな面持ちで私を見ていました。思わず、目を見開いて息を飲みました。どうして、私の姿が見えるのだろう。私の姿は、誰にも見えない筈なのに。
永く、見詰められた事が無かったせいもあったのでしょう。顔が火照り、頭に熱が溜まりました。何も考えられなくて、あたふたと視線を彷徨わせていると、彼は狩衣の袖をふわりと揺らしながら此方に手を伸ばしてきました。
「もし、君は‥‥」
とても、とても落ち着いていて穏やかな声でした。優しげな姿と相まって、ああ、きっと素敵な殿方なのだろうなと思いました。
そう思えば思う程に、私の熱はどんどん膨らんでいきました。遂に沸騰してしまった私は、混乱したまま頭を下げて桜の中に隠れてしまいました。
そっと、桜の中から彼を見る。
零した笑みはやっぱり優しげで、胸がきゅっと締め付けられました。
明日は、お話出来る様に頑張ります。
***
その日も、穏やかな春の陽気に包まれていた。春眠暁を覚えず。それまではしゃぎ回っていた子供達も、今はすやすやと夢の中だ。固まって眠るその姿に笑みを浮かべつつ、石切丸は庭に出た。さく、と草を踏み締めながら向かうのは、昨日彼女が居たあの枝垂れ桜の元だ。
もしかしたら、もう彼女は居ないかもしれないという不安は杞憂に終わった。
「‥‥おや、今日は急に居なくなったりはしないんだね」
枝垂れ桜の幹に背を預け、何かを待つ様にそわそわとしていた少女に声を掛けると、びくりと体を震わせて少女が振り返った。目をぱちぱちと瞬かせ、頬を赤く染めた少女は恥ずかしそうに俯くと、両手をきゅっと握り締めて眉尻を下げた。
「昨日は、ごめんなさい。あ、あの‥‥私、誰かに見られるのは、初めてで‥‥」
「そうなのかい?ああ、それなら仕方ない。私こそ、君を驚かせてしまって申し訳ない」
「そ、そんな‥!あ、あれは、私が勝手に吃驚しちゃっただけで、貴方は全然悪くなくて‥‥!」
必死に言葉を紡ぐ少女に、思わず笑う。良い子だな、と石切丸は淡く微笑すると、目の前に聳える枝垂れ桜を見上げた。何時から植わっているのか分からないと、主は言っていた。主がこの本丸に来た時には既に老樹だったと。
「‥‥なる程、この木が今も尚立派に花を咲かせているのは君のお陰だね」
「え、えっと‥‥」
「大丈夫、私も君と同じ様な存在だからね。今は人の形を取っているけれど、本来は物言わぬ刀なんだ」
安心させる様に言えば、少女はえ、と目を瞬かせた。そして、少し体の力を抜くと嬉しそうに笑った。
「‥‥同じ、なんだ‥‥嬉しい、です‥‥」
思えば、彼女が笑う姿を見るのはこれが初めてだった。石切丸はぼう、と彼女を眺めて固まっていたが、直ぐに我に返ると笑みを返した。
そっと、彼女の頭に付いた花弁を掴み取る。
「改めて、初めまして。私は石切丸と言う。良ければ、君の名前も教えてくれないかな」
「は、はじめ、まして‥‥私、は‥‥‥あるじ、です。昔、私を植えてくれた人が、私をそう呼びました」
泣きながら植えていたと、彼女は続けた。泣きながら、何度も何度も私の名前を呼び続けていたと。
「私なら、人間よりもずっと永く生きれるからと。でも‥‥どれほど永く生きられても、永遠に在り続ける事なんて出来ないのに‥‥それに、永く生きたって‥‥その分、たくさんの人とお別れしなくちゃいけない‥‥」
切なげに寄せられた眉。当時を思い返しているのだろう。
石切丸もまた、遠い昔に彼女を植えたとされる人物を思い浮かべてみた。恐らく、その人物の大切だった人の名前なのだろう。
「‥‥形あるものは何時か壊れる。これはさる方からの受け売りだけど、確かにその通りなのだと思うよ。けどね、それでも人の一生に比べれば私達の生は永い。永い分、辛い出来事や身を切られる別離も多く経験する。でも、それと同じ数だけ嬉しい事も幸せな事も多く経験する事が出来る。‥‥‥例えば、君と出会えた事。これも、私にとってみれば嬉しい事の一つだね」
ぱっと、彼女の頬が色付いた。恥ずかしそうに視線を彷徨わせて、私もです、と消え入りそうな声で返す。
「‥‥‥あ、あの‥‥私、明日も此処に居ます。だから、その‥‥」
「そうか。なら、明日もまた此処に来るよ」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに彼女は破顔した。
***
彼は、その日から毎日会いに来てくれました。そして、いろんな話を聞かせてくれました。
本丸での出来事。
彼が此処に来る前の出来事。
些細な日常から、彼の人生観まで。彼は教え子に語る様に、様々な話をしてくれました。
本当に、涙が出そうな程に嬉しかった。今まで、こうして誰かと語り合う事なんて無かったから。何時も一方的な出逢い、一方的な別離ばかり経験してきたから。
彼も私と同じだと聞いた時、心の底から安心しました。彼は、私を置いて居なくなったりしない。
そう、彼は居なくならない。
だって、置いて行くのはきっと私の方だから。
日を重ねて、彼を見る度に苦しくなりました。息が出来なくて、貴方が居ない時には涙が溢れました。
置いて行かれる辛さは何度も経験したけれど。
置いて逝く辛さは、私にとっては初めての経験だったのです。
「貴方が‥‥大好きです。石切丸さん」
貴方が居ない夜、私は月に向かって小さく呟きました。
貴方に出逢って、私は恋の痛みを知りました。
貴方に出逢って、私は恋の切なさを知りました。
でも、だからこそ。この想いを貴方に告げてはいけない。せめて、最期の時まで貴方の笑顔を見たいから。
この想いは、最期まで私が連れて行きます。
***
名前を呼ばれて、顔を上げました。目の前には、穏やかな笑みを湛えた彼の姿がありました。
けれど、柔らかな萌葱色の狩衣は所々破れ、覗く肌からは血が滲んでいます。穏やかな色の瞳も、何故だか酷く疲労している様に見えました。
「‥‥武器としての本分を忘れていたツケだ。我ながら不甲斐ないと思うよ」
彼は困った様に笑いながら言いました。
私が口を開くよりも先に、彼は懐から何かを取り出して私の髪に触れました。その手には、桜の形をした髪飾りがありました。
「この前、主と一緒に店を訪れてね。その時に見付けたんだ。君に似合うと思ったんだけど‥」
どうだろう、とはにかむ石切丸さんを見上げて、じわりと目の奥が熱くなりました。
髪飾りを受け取る。彼が選んでくれた。私の為に。すごく嬉しい筈なのに、私、涙が止まりません。
「あるじ‥‥?」
「‥‥嬉しい、です‥‥とっても、とっても嬉しい‥‥」
髪飾りを握り締めて、祈るように私は呟きました。
私の幸せが、また増えました。
幸せが増える度に、痛みもまた増えました。
貴方と、もっともっとお話したかった。
きっと、明日が貴方とお話出来る最期。
私、やっぱり明日貴方に告げます。
大好きでした。
お慕いしていましたと。
***
桜の花弁が地面を覆います。あれ程見事に咲き誇っていた桜も、やがて全て散って寂しい姿を晒します。それでも、他の子達は来年もまた咲く事が出来るでしょう。
けれど、木の根元に致命的な病気を抱えている私はもう、今日でその命が尽きてしまいます。
けれど、その日。
彼は、姿を現しませんでした。
待てども待てども、彼は現れません。早く、早くしなければ私はもう消えてしまいます。
貴方に、何も告げられないまま。
「‥‥‥あるじ、ていうのは君の事かな」
突然声を掛けられて、ハッと息を飲みました。
其処に立っているのは、見知らぬ男性でした。華奢な青年は、髪で隠れていない方の目を細めると、悲しげに息を吐きました。
「‥‥‥石切丸は、今日は来れないよ」
「‥‥どう、して‥‥?」
「彼は今、治療を受けているんだ。多分、明日まで歩く事もままならないよ」
目の前が真っ暗になりました。
彼が戦に出向いている事は聞き知っていました。先日の怪我も、きっとその戦で受けた傷だったのでしょう。
ああ、けれど。
「‥‥生きて、いらっしゃるんですね‥?」
「ああ。今は気を失っているけれど、手入れが済めばまた此処に来れるだろうね」
青年は言いながら、私の足元に視線を落としました。
その顔が、辛そうに歪みます。
「‥‥‥けど、君はもう‥」
「‥‥良いんです。あの方が無事なら、それで」
髪に付けた髪飾りに触れて、私は微笑みました。
良かった。
想いは告げられなかったけれど、貴方が生きてさえいれば、私はもう何も望みません。
けれど、せめて。
もう一度、貴方に名前を呼んで貰いたかったと思うのは、我儘でしょうか。
***
月明かりが、柔らかく枝垂れ桜を照らしています。もう、私の体は殆ど透けていて見えません。
そっと、腐った根元を撫でる。
ふと、脳裏に思い出が蘇りました。その思い出の殆どが、萌葱色の彼との日々でした。
貴方に出逢えて、良かった。
死ぬ前に、貴方を愛せて良かった。
「あるじ!」
ああ、私はなんて幸せ者でしょうか。
目の前には、身体中に包帯を巻き付けた彼の姿がありました。歩く度に痛みを堪える様に顔を歪める石切丸さんに、私はまたぼろぼろと涙を零しました。
「‥‥‥っ。どうしても、君に会わなければいけない気がしたんだ。情けない姿で、申し訳ないね‥‥」
苦しそうに掠れた声で言う石切丸さんに、首を横に振る。彼を支えようと伸ばした手は、けれど彼に触れる事なく虚しくすり抜けていきました。
彼が、辛そうに眉を顰めます。
「‥‥もう‥‥触れる事も出来ない、か‥‥」
石切丸さんは悔しそうに呟くと、もう殆ど透けてしまっている私の頬に手を伸ばしました。
悲しそうに、彼は笑う。
「‥‥君と会えて、良かったよ」
もう触れる事は叶わないけれど、そっと彼の手を自分の両手で包み込む。
「私も‥‥貴方と出逢えて、良かった‥‥」
大好きでした。
***
誰も居なくなった庭で、石切丸は地面に落ちた髪飾りを拾い上げた。
「‥‥‥酷いな。言い逃げとは‥‥」
髪飾りを握り締めて、石切丸は目を伏せた。
どれ程別れが辛くても。
彼女に出逢えて良かったと思うのは、愚かだろうか。
綺麗なもんだな、と主が愛おしそうに呟いたのを聞いて、石切丸は縁側から庭を眺めた。柔らかな春の陽射しを受けて、小さな野花が其処彼処に庭を彩っている。
しかし、誠に圧巻されたのは庭に植えられた枝垂れ桜の数々だった。重みに耐え兼ねて垂れ下がる枝にはみっしりと薄紅色の花が付いている。
昔死んだ枝垂れ桜は、もう居ない。
「‥‥ああ、そう言えば今日は妹が来るんだったな」
「おや。主殿に妹君が居たとは初耳だね」
「まあな。言う機会なんて無かったし。あいつも引っ込み思案だから、みんなに紹介し辛くて‥‥だから、急にあいつが本丸に来たい、て言い出した時は吃驚したよ」
「主、妹さんが来ているよ」
ひょこりと顔を覗かせたにっかり青江の言葉に、おお、と主は頷いてせかせかと玄関に向かう。ちらりと、青江が石切丸を見た。
「‥‥どうかしたかい?」
「‥‥‥いや、それが‥」
「おい、どうしたんだよ急に!」
主の切迫した声が聞こえてきて、二人は目を見開いて声の方を見た。
其処には、息を切らして立つ少女の姿があった。足首までの長いベージュのスカートに、薄紅色のカーディガンを羽織り、栗色の髪を揺らした少女は苦しそうに息を吐き出すと、石切丸を見て微笑んだ。
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
「‥‥‥私、ずっと思い出せなくて‥‥でも、やっと思い出せました‥‥!」
駆け出して、腕を伸ばした彼女を抱き締める。
二度目の初めまして。
抱き締めた少女からは、桜の匂いがした。
迷い桜 - fin -
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石切丸×桜の守護神