カンパネラの向こう側
「江雪さん、どうしたんですか」
「…………」
「…不満があるならちゃんと言ってくれないと分かりません」
この会話を、今日で一体何度繰り返しただろうか。私が同じことを訪ねて、江雪さんも変わらず無言で返す。そんな何一つ進展の無い応答が、かれこれもう小一時間も続いている。元から江雪さんは表情の変化が分かりにくいし、口数も多い方では無いけれど、それを除いたとしても今日の江雪さんはやはりどこか不機嫌そうに見えた。
「お腹でも痛いんですか」
「…………」
「江雪さーん」
ほら、また無視だ。やっぱり今日の江雪さんは何処かおかしい。出陣する前はいつも通りだったと思うけど、と改めて記憶を手繰りながら、こちらを一瞥もせずに廊下を歩く江雪さんの後を追う。朝も出陣前も変わらず、となると戦場か本丸に帰ってきてから何か思うことがあったのだろうか。しかしいくら考えたところで当の本人が教えてくれないのだから、この問題に答えは無い。
「江雪さん、そんなに戦いが嫌なんですか」
「…………」
「…江雪さんが争いを好まないのは知っています。けど、私一人の力では目の前の敵を倒すことすらできないんです。だからどうか、力を貸してもらえないでしょうか」
私があまり性能のよくない頭で出した結論はこれだった。江雪さんが争いを好まないのを知っているのに、それでも戦いに出し続けるのは、審神者である私のエゴだ。だからこそ、不満も怒りも全て私にぶつけてほしい。こんな風に無視されていたら、謝ることすらできない。考えれば考えるほどじわじわ悲しくなってきて、私はとうとう江雪さんを追う足を止め、その場に一人で立ち尽くした。
「……何故そんなに泣きそうな顔をしているのですか」
なんだか随分と久々に、その静かな声を聞いた気がした。俯いた顔をゆっくりと上げると、どことなく焦ったような表情を浮かべた江雪さんが私の揺らぐ瞳をじっと見つめていて、私はほとんど反射的に、江雪さんが何処にも行かないよう彼の袖をぐいと掴んだ。
「なっ……」
「…逃げないでください」
「…………」
「ちゃんと教えてください」
怒鳴られることより、嫌われることより、無視されて意思疎通を拒まれる方がよっぽど辛いです。ようやくこちらを見てくれた江雪さんに思っていたことを全て言うと、彼は僅かに眉間に皺を寄せた。それは少しだけ分かりにくい、江雪さんが困っている時の表情で。
「…貴女は」
「はい」
「……加州のことが好きなのですか」
「…………は?」
全く意味の分からない方向から投げられた言葉に、グローブを構える暇すら無かった。野球をやっていると思ったのに実はラグビーで、突然捨て身のタックルを食らわされたぐらいの驚きが私の後頭部を思い切り殴って、あまりの衝撃に一歩後ずさった。加州。私が知っている加州は、綺麗なものと可愛いものが好きな打刀の加州清光だ。多分その加州で合っているとは思うのだけど、好きなのかと聞いてきた江雪さんの真意が何一つ分からない。
「…え、はい。好きか嫌いかで言えばそりゃ好きですよ」
「……そうですか」
いやいやいや、なんでそこで踵を返すんですか。私は掴んだままだった袖を慌てて引っ張り、その場から立ち去ろうとする江雪さんを制止する。
「まっ、待ってください!清光のことは好きですけど、そんなこと言ったら江雪さんも山姥切も岩融もみんな好きですよ!!」
「…そういうことではありません」
じゃあどういう、と半ばキレ気味に尋ねようとした瞬間、強い力で引き寄せられて、私は江雪さんの胸の中に収まった。状況が分からずに彼を見上げると、端整な顔がすぐそこにあり思わず息を飲んだ。江雪さんの綺麗な瞳に射抜かれて、その場に繋ぎ止められる。呼吸さえ彼に操られているような、そんな感覚。
「…私の聞いている好きは、こういうことですよ」
つ、と唇を指でなぞられ、赤くなった自らの頬にその意味を嫌でも知った。吐息が触れ合いそうなほどの距離で、私と江雪さんは一瞬も余所見をせずに見つめ合っている。腰に回された腕に一層力が篭るのを感じた。
「…そ、そういう好きじゃない、です」
「…そうですか。つまり貴女は、好きではない男の頭を平然と撫でるのですね」
「頭……?」
そういえば、先程戦から帰ってきた清光の頭を撫でた気がする。けれどそれは清光が「主!頑張ったから撫でて!」とまるで子犬のように私に笑いかけてくるものだから、労いの意味も込めてしたものであって、そこに男女のような感情はまるで無い。だから今の江雪さんの言葉はまるで的外れなわけであって、つまり、ねえ、結局のところ江雪さんは、何に腹を立てていたというのか。…頭の悪い私は、今までの会話とこの距離で、どうにも勘違いしてしまいそうだ。
「…あの、江雪さん」
「…なんですか」
「間違っていたら本当に申し訳無いんですけど、あの…それは、嫉妬、というやつですか?」
ぴくり、と江雪さんが僅かに固まったのが伝わってきた。やはり検討外れなことを言ってしまっただろうか、そう思い謝るために口を開こうとすると、それは「そうですね」という江雪さんの拗ねたような声に遮られた。
「…貴女が加州に触れていて、すぐにでも引き離したいと思いました。引き離し、自らの腕の中に収めて、私以外を目に入らなくしてしまいたい、と」
「…あ、あの、江雪さん…?」
「そんな醜い感情は、確かに嫉妬と呼ぶのでしょう」
「…は、はあ」
まさか肯定されるとは思わなくて、今度は私が戸惑う番だった。元は刀だというのに触れ合う江雪さんの体は全く冷たくはなくて、むしろ人間の私よりも熱いように感じられた。全身から伝わる江雪さんの体温が、私の頬にまで熱を移す。こんな人間らしい感情を抱く人外など、私は知らない。ばくばくと激しく音を立てる心臓は、今にも破裂してしまいそうだ。
「しかし、こうして貴女を腕の中に閉じ込めることは叶ったのですから、結果としては良かったのでしょうか」
「よ、良かった…の、でしょうか」
「…ついでに、ひとつお願いをしても良いでしょうか」
その言葉になんだか無性に嫌な予感がして、引き下がろうとした私の動きを、腰に回った江雪さんの左腕が阻む。自力じゃどうしようもなくていっそ誰かに助けてほしい程なのに、こんな時に限って誰も通りすがらない。いや、こんなところ見られて誤解されたら恥ずかしくて仕方ないのだけど。江雪さんの顔は、もう睫毛が触れそうなほどに近かった。彼の動く唇から、目が、逸らせない。
「…貴女に口付けをしても構わないでしょうか」
一体何の冗談かと思ったが、江雪さんの顔は至極真面目だった。冗談じゃない、と分かった途端、全身が燃えるように熱くて、熱を発散させるかのように口を開けては閉じてを繰り返す私は、目の前の綺麗な人にどれだけ間抜けに映っているのだろうか。けれどそんな私のことなどお構い無しに、既に間近にあった顔が更に近付いてくる。
「ちょ、江雪さ……ん」
羞恥だとか混乱だとか色んな感情がぐちゃぐちゃになって耐えられずに目を強く閉じると、構えていた場所に温もりはこず、代わりに小さなリップ音と柔らかさが額に降ってきた。は、と自分からとんでもなく情けない声が漏れて思わず目を開けると、江雪さんはそんな私を楽しそうに眺め、そしてようやく腰に回していた手を離した。
「…唇は、貴女がその気になった時まで取っておきます」
人差し指を唇に添えて楽し気に言う江雪さんは、憎らしいほどに色っぽい。先程とは違い上機嫌に去って行く彼の後ろ姿に溜息をひとつ零して、私はこれから江雪さんの前でちゃんと審神者として振る舞えるかどうか、そんなことを赤い顔のまま考える。
「……江雪さんの馬鹿」
彼の前ではただの女にされてしまう自分がどうしようもなく情けなくて、触れた額に熱が灯った。