狐語を少々
鳴狐を窺っている。昼過ぎからずっと窺っている。縁側の板敷きに腰掛けてぼうとしている様を、行きつ戻りつ柱に隠れつ、声も掛けずずっと。先の遠征について聞きたいことがあるのに、時間ばかりが過ぎていく。
鳴狐の肩を塒とし、鳴狐の声となるキツネの姿が今日はなかった。
鳴狐そのものは口下手だ。その面頬はただの面頬ではなく口枷なのかと問いたい程に本体の声を聞くことがない。もとは打刀とはいえ、表情まで作り物めいていて喜怒哀楽の色を見せないものだから、キツネがいない今どうやって言葉を交わせばいいのかと困り果てている。
「鳴狐」という刀剣そのものはその昔、京都粟田口派の国吉により打たれたものだ。しかしそこにいる鳴狐については、日々あれこれ切り詰めながら資材を集め、いい感じに刀工に命じ、審神者たる私がえいやっと力を込め、刀剣男子としての生を与えたのだった。
へし切り長谷部は以前の主を恨み、堀川国広はいつでも和泉守兼定を気に掛ける。彼らは彼らで刀剣としての記憶を保持しているが、それでもこうして人の姿を成し、触れ、言葉を交わせるように生み出したのは私だ。母性と言うには複雑な事情が絡むが、それに近しいものは持っている。──ようは、そう、気に掛けている。お供のキツネがいなければ碌に話せない、コミュニケーション能力があっぱらぱあに欠如した鳴狐のことを。
それは例えば未就学児に似ている。
まだ本丸に来る前、家の近所に生まれた女の子は幼児語ともいうべき支離滅裂な言語を操り、日本語がネイティブな私には理解し難い訴えをおこした。何かを伝えるにしても、見よう見まねに「クックナイナイして、クック、だからそこで靴脱いで下さいって」と言っても伝わらない。伝わらなかった。あの子は何度でも公民館の玄関マットを土まみれにした。閑話休題。
刀剣達の話になれば、打刀や太刀と比べて一番に小さな短刀は、刀で見たそのままに幼い体つきをしている。年の頃はまあ、一番に小さい子で、人間でいえば六つ七つといったところか。彼らが仮に本当に人間だったとして、やや伝わりにくいところもあるだろうが、会話をするには支障ないだろう年齢だろう。
しかし鳴狐は短刀ではない。脇差でもなく、打刀だ。刃長一尺七寸八分の立派な打刀なのだ。それなのに狐を介さないと、文字通り話にならない。このままでは何もしないまま一日が終わってしまう。審神者だって暇じゃない。レポートとか書かなければいけないのに。
余計な心配事まで思い出したので、意を決して柱の影から出た。
「ああ、今日もいい天気だ。おや、こんなところに鳴狐がいる」
床板を踏み鳴らし、ばっさばっさと服の裾を擦れあわせ、たまたま今来ましたよと装って発語すると、ちら、と鳴狐がこちらを向いた。相変わらず無表情で、感情が読めない顔をしていた。
「こんにちは鳴狐。ひなたぼっこをしているのかな」
極めて穏やかに微笑んで首を傾げると、鳴狐は膝にまるめていた手をすっと持ち上げて、両指でこんこん狐の形を作った。誰か私に手話を教えて下さい。
鳴狐は私の応答に答えてくれた素振りをみせたが、これは鳴狐の手癖のようでもあり、どれほどの意味が込められているのかわからない。「イエス」なのかもしれないし、「一緒にどう?」という友好的な意味が込められているのかもしれない。「ああ聞いてる聞いてる」と猫が尾だけで返事するようなものかもしれないし、「とっとと失せろ」のハンドサインかもしれない。やだなー。
あれこれ思っても今は彼にとって主なので、最後の選択肢を放り投げ、試しに同じくこんこん狐の形を両指でつくって反応を窺うことにした。特筆すべき反応は返らなかった。
といってすぐさま狐の指を解くことは出来ない。あまりにも日常生活で汎用性を見いだせないハンドサイン故、つまりは慣れないことをしたものだから妙に気恥ずかしく、引くに引き難い。
狐が四匹向き合う。刻々と時は過ぎる。疲れてきたので膝をつき、座した後もまだ狐は向き合っていた。
鳴狐の口は開かない。開かないので目をみた。蜜を薄く溶かしたような金目は日溜まりにきらきらとして、瞬きをすると、つう、とそのまま零れ落ちそうになる。銀糸の睫毛で縁取って支えているという風だが、それも儚くて、こんな代物が存在しているのはちょっとおかしい。
さやさやと風流れる。昼日向の庭先はあたたかく、草の蒸した匂いが薫ってくる。丑三頃、室の灯りをつけずに真暗なまま、二人向き合って過ごすなら呪術めいた指先はお誂え向きではあるが、今この場での指先には、また別の不思議を感じる。かつて公民館にて、幼い女の子が内緒事をするようにして流行りの変身ポーズを指南してきた記憶に似ている。そのポーズがどういうものだったのかはまったく思い出せないが、近所の翁に嫗が「あらまぁ」とあたたかな野次を飛ばしてくるまで、ちらちらとひかる空気がくすぐるようにその場に漂っていたのだった。
「ぬしさま」
ふいに声が聞こえたものだから首を向けると、大きな白い毛玉──小狐丸が、廊下の端からぷらぷら歩いてきた。機嫌よさそうに目を細めていたが近づくにつれ、おや、と目をまるくした。
「これは、鳴狐ばかりずるいではありませんか。二人で楽しいことをなさっていたのですか」
言うなり、またにこにこと笑って小狐丸も、両指で狐の形をつくった。これで狐は六匹。いや、八匹というべきか。
小狐丸があんまりにも自然な動作でしたものだから、なるほどこの指は狐同士ツー・カーの行為であったのかと納得しかけたのだが、
「それで、これはどういう遊びですか?」
と続けられたので早々振り出しに戻った。これ以上誰か来てみろ、妖しげな新興宗教のようではないか。私とて審神者、見る者を不安にさせるような振舞いは慎まなければならない。
いずれにせよ遊んでこうしているのではないしハンドサインについては答えようがないので速やかに指を解き、
「鳴狐に用があったのだけど、キツネがいなくて」
と小狐丸を見上げた。小狐丸は「ふうむ」と頷いて、
「なるほど、妙に物足りないと思ったら供がいないのですか。そういえばあちらで、短刀達が五虎退の子虎を構っていましたから、ひょっとするとそこに混じっていたのかも」
と言った。狐、虎に喰われたりしないかな。大丈夫かな。心配になって鳴狐のほうをちらと見たが、焦っているようにも見えなかったし、驚いているようにも見えなかった。
「それでぬしさま、鳴狐への用というのはなんだったのですか?」
「この前の遠征について、聞きたいことが少し。ただ急ぎではないから、後でもいいといえばいいのだけど……」
供のキツネはいつ戻るのだろう。帰りを待つのは構わないが、これを機に鳴狐と話をしたい。そういう気持ちもある。しかし何と話しかければいいのかわからないなんて、直接言葉にするのは本人を前にして如何なものか。難儀だ。とてつもなく難儀だ。
むむむ。喉で鳴いていると、しばらくの間黙って聞いていた小狐丸が、もう口ついてないんじゃないかと思う程に黙っている鳴狐をちらと見下ろして、訳知り顔をした。
「鳴狐。さては、ぬしさまで退屈を紛らわしていたんじゃろう」
「は?」
何を言っているんだこの大狐は。馬鹿なことを、と同意を求めるように鳴狐を向くと、金目は細められ、面頬から覗く唇は微かに──笑っている? なんで?
困惑していると、小狐丸が言った。
「ぬしさま。私や三日月ほどではありませんが、こやつは鎌倉の生まれ。太郎太刀次郎太刀、もちろんぬしさまよりもずっと爺です。鳴狐は、まあ、そもそもにして難儀なやつではありますが。爺といういきものもまた、ぬしさまのような若いおなごが困り果てているのを見るのが好きな、難儀なやつなのですよ」
「それはつまり……」
つまるところ、鳴狐にからかわれていた。小狐丸はそう言っている。だけどそんな、鳴狐がそんなことするわけ、する、す、どうなんだ。どうなんだ鳴狐。
付喪神となったのは審神者の力を通してからとはいえ、「鳴狐」そのものは鎌倉時代に生まれた。刀剣男子としての生を与えられた彼らは刀として在った記憶を保持している。ならば、まあ──そう、そうだな、彼らにとっては私など赤ん坊同然。ずっと上手にいることは自明なことだ。
これは恥ずかしい。この事実は幼い女の子から変身ポーズを熱心に受講していた時に、知らずご近所さんに見守られていた痴態に似ている。ぽつぽつといやな汗が浮かび、頭部に熱を抱き、とっくに解いた指の狐をはははこやつめと懲らしめるようぎゅっと握って爪を立てた。
鳴狐を窺うと──笑っている。笑っていやがる。鳴狐は疑う余地もなく笑っていた。眉尻は下がり、金目は緩んでいる。羞恥心を必死で殺す私がどれほどおかしかったのだろう。面頬に覗く唇が弧を描き、開いた。
「驚いたか」
――その声は微かに耳に覚えがある。
息を飲み、鳴狐と小狐丸をみて、小狐丸も目をまるくしているから空耳ではなかったとまた鳴狐をみて、小狐丸にすがるように目を合わせた。
「これはこれは」
小狐丸は犬歯をみせて、からからと笑いだす。この狐がわざわざ楽しげなことを窘める理由もあろうはずがない。
「鳴狐がここまで喋るとは、ぬしさまは化かし甲斐があるとみえる」
「それは、なんというか」
うれしくない。うれしくないです。しかし、いやだとか、刀解されたいのかという乱暴な気持ちにはならない。
というのは、鳴狐が私にしっかりと関心をもち、供のキツネがいなくてもコミュニケーションをとり、また、楽しいという感情を見せてくれたからだ。むくむくと胸の底から何かが萌え出づる気配がする。いつか黄色い花を咲かす、正体不明の植物が。
「さあぬしさま、今度はこの小狐も構って下さい。先ほどまで陽にあたっておりましたゆえ、この毛並みはぬくとうございます。どうぞお触り下さい」
「え、ああ、うん」
「……」
「……なんじゃ、鳴狐もか?」
差し出された頭ふたつ。何かしていないと落ち着かない節もあったので、考えることを放棄して髪に触れた。小狐丸の髪は獣質が強いとでもいうのか、もふもふとして人のそれとはまた異なる手触りをしている。一方鳴狐はというと、見たところもう少し人に近い。わしゃっとしているけど、もふもふではない、みたいな。そんな気がする。
一頻り撫でられて満足したのか小狐丸は立ち去り、あとにははじめ通り、私と鳴狐だけが残った。鳴狐は本日のタイムサービスは終了しました然とした様子で、口を利かない。そうこうしているうちに噂の子虎達に解放されたのか、心なしか毛並みが乱れた供のキツネがやってきた。遠征についてあれこれと、今のキツネに鳴狐の通訳をしてもらうには気が引けるので、億劫ではあるが、そろそろ催促がくるレポートを片付けるべくすくと立った。
「鳴狐」
もう行くね。また話してくれるのかな。今度はもっと声を聞けたらいいのだけど。
いくつかの言葉かぐるり頭の中を巡り、選び取る前に、じっとこちらを見上げる鳴狐と目が合った。
目はどれほどのことを語るのか。おわり? みたいな目に見えたので、また少し迷ってから、鳴狐の頭をもう一度、そっと撫でた。気持ち良さそうに目を細め、身をゆだねきった顔をする鳴狐は狐ではなくて猫だ。気まぐれで愛らしい猫。
ひょっとすると、鎌倉時代は言う程遠くないのかも知れない。