守りたい人
鳴狐さんは、滅多なことでは口を開かない。
ほとんどは「代理」として肩に乗ったお供の狐さんが話していて、主である私ですらその本人の声を聞いたことは片手で数えるほどしかなかった。
でも、諦めたくない。今日こそちゃんと話すんだ。
「鳴狐さん、出陣の準備をお願いします」
「承知致しましたあるじどの!」「……」
鳴狐さんはいつものようにこくり、と頷いて準備へ向かってしまう。無理強いをしたくはないけれど、お供を介さず、一対一で対話したいと思う気持ちは日に日に強くなっていた。
*
その日は小雨が降っていた。
隊の刀は四本。
同田貫正国さん、獅子王さん、鳴狐さん、五虎退くん。
どんよりと雲がのしかかった空は、どことなく戦に不穏な空気を漂わせている。そんなふうに思った私の勘は、やはり間違っていなかった。
隊長の同田貫正国さんが、偵察を指示する。すると、前線を歩いていた五虎退くんから声が飛んだ。
「隊長、大変です!あの、太刀と薙刀が、たくさんいます、すみません……!」
「ああ?遠視じゃ太刀一本と護衛だけだったろーが」
「どうやら気付かれたよう。鳴狐、気をつけるのですよ」「……」
「だーいじょぶだって。オレがしっかり倒してやっからよ!」
戦況が変わった。先手を打ったつもりだったけれど、やはりそんなに甘くはないみたいだ。
怖い。でも、みんな戦おうとしてる。
私にできることは、
「……皆さん、落ち着いてください。恐らく敵は三本ずつ。数では不利でもこちらには盾兵もいます。
それに何より、皆さんがこの程度で折れてしまうだなんて、思えませんから」
信じること。
仲間を、刀を、守ること。
「勝って、必ず本丸に帰ります!」
「ったりめーだ」
「おおせのままに!」
「は、はい…!」
「了解ッ」
*
詰めが甘かった、と言っても許されない。
大事な、大切な、大好きなものなのに。
……いや、私にとってはもう、刀に宿った一人一人はものなんかじゃない。大切な、大好きな人たちだ。
「ごめんなさい、鳴狐さん。
私の指揮が未熟なばかりに、こんな傷を」
ひとりでに涙が落ちた。横たわる彼の枕元にはお供が寄り添い、鳴狐、鳴狐、と今にも泣き出さんばかりに震えていた。
はじめは順調だったのだ。太刀の二人を中心に、徐々に敵数は減っていた。
しかし、薙刀三本をすべて処理できないうちに五虎退が狙われてしまった。もともと刀装の厚い刀じゃない。中傷に留められたことは不幸中の幸いだった。
問題なのはそのあとだ。重傷を負わせたはずの敵が、最後の一振りとばかりに攻撃を放った。
周りの敵をひとまず倒し、退避を始めていた私たちの隊は背を向けていた。五虎退くんへの攻撃に気づいたのは、
「ごめん、なさい……!」
「……あるじどの」
鳴狐さんの、お供だけだった。
反応したそれに、鳴狐さんはとっさに身を投げ出したのだ。抱え込んだ五虎退くんは無事だったけれど、兵の追いつかなかった鳴狐さんは背中にもろに傷を受けた。重傷だった。
「あるじどの、あまり自分をお責めになってはいけません。……鳴狐は、守りたかっただけなのです」
「違うの、私は……私の役目は、みんなを守ることなのに」
包帯を巻かれぐったりとした鳴狐さんはいつもの静かな表情ではなくて、鼻の奥がつんとした。
「鳴狐、今日はもう休みなさい。次の出陣へ備えるのですよ」
「……」
「あるじどのはこちらへ」
ひょこ、と一度前足を私の服の裾へおいて、お供の狐さんは縁側へ向かった。
*
月を見上げた狐さんに倣って隣へ座る。
鳴狐は、と独特の声が夜に響いた。
「人付き合いが苦手なのです。それゆえ、わたくしめは昔から世話を焼いてきました。余計なことをした、とお思いになるかもしれません。しかし、わたくしめはそのような形で鳴狐に尽力できることを誇っております」
「……そう。あなたは、鳴狐さんが大好きなのね」
「勿論でございますあるじどの。あるじどのが鳴狐の仕える主であるのと同じように、わたくしめにとっては、鳴狐が主なのですから。唯一人の、主です」
くぅん、と狐さんは寂しげに鳴いた。
そうだ。狐さんだって、自分の主を守りたかったに決まってる。
「ごめんなさい。ほんとうに、何て言えばいいのか」
「あるじどのに非はありませぬ。ここへお呼びしたのはそのためではございません。ただ、あるじどののお気持ちを、伝えて欲しいと思ったのであります」
狐さんが膝へ乗った。黒く澄んだ目に私が映る。
「あるじどのが鳴狐を愛していることを。それほどまでに大切に思っていることを。あるじどのの言葉で、伝えていただきたいのです」
いつもの声よりほんの少しだけ低く、ゆったりとした真摯な声。鳴狐さんのことをいちばんに考えているんだ。
「あ、愛しっ……。そんなこと、言えないわ」
「いいえ、あるじどのなら必ずや成し遂げられます。ひとは鏡、刀とて一人の人。大切な思いには、本当の気持ちが帰るものです」
狐さんは最後に、あるじどのにさちあれ!といつもの声で告げて去っていった。
きっと鳴狐さんのお部屋に戻られたんだろう。
「……素直な気持ち」
鳴狐さんが大切な人であることは明らかで。
もっとずうっと仲良くなって、二人で話して、みんなと笑って、そして。
「ずっとそばに、いてほしい」
枯れたはずの涙がまた溢れる。
好きだって、心はとっくに気づいてたのかもしれない。あの白い肌が紅くなるたびに、まるで自分の身体が抉られていくみたいだった。
今日の戦でのことが気持ちをいっそう強くする。きりきりと胸が締め付けられる。
罪悪感でいっぱいになった心臓は鉛みたいに重く感じた。あの人が抱きしめてくれたら。そんなふうに思う相手もまた彼であると痛いほど理解してしまって、私は声を押し殺して一人泣いた。
*
翌日。
手当が早かったのが良かったようで、鳴狐さんは無事に回復した。狐さんはとっても心配性で、しきりに痛いところはないか、と尋ねていた。
「……無事に回復して、良かったです」
「……」
「狐さん。二人で話をさせていただいても、いいかしら」
そっと肩へ目配せをすれば、狐さんはにんまり笑って部屋を出た。失礼のないようにするのですよ、と鳴狐さんに言い残して。
「こんなふうに二人で話すのは、はじめてですね」
「……」
「どうしても、話したいことがあったの」
意を決して、目の前の彼を見る。
「私は鳴狐さんが傷つくのが嫌です。他の皆さんも、もちろん。だから私がみんなを守りたい。守らなきゃいけない。大好きな人が傷つくのを黙って見ているなんて我慢できない。
でも、私は弱い」
彼と視線がぶつかる。鳴狐さんは何も言わない。
覆われた口元から表情はわからない。
「私じゃみんなの足を引っ張ってしまう。だから、強くなりたいの。
鳴狐さんみたいに、みんなを守れる強さが欲しい。
強くなるために、みんなのことを知ろうと思ったわ」
内側から強くなりたいから。まずは、守りたいって気持ちを強くするために。
だから、
「お友達になりませんか、大好きな鳴狐さん」
「……とも、だち」
細い目がじっと見つめる。
やがて膝に置かれていた彼の手が形を変えて、黒い狐が、こんこんと頭を下げた。
「よろしく、……あるじ」
*
「めでたしめでたし、でありますね」
廊下の狐は呟いた。
「友達からというので、よかったのかな?」
「急に近づきすぎると見えなくなることもあります。そうは思われませぬか、宗近様」
「ははは、そうかもしれんな」
一人と一匹は柔らかに笑った。
一人と一匹は柔らかに笑った。
Fin