俺が住んでいるのは離れだからそいつと会うことはないが、俺の世話をしてくれていた高梨が状況を教えてくれた。母以外で唯一信頼できた人物だ。母が亡くなってからまるで牢屋みたいなところに放り込まれ、まあ死なない程度に世話をしてやれと抜粋されたのが高梨なのである。面倒を押し付けられて可哀想な奴だと思ったが、高梨という人間は思いの外淡白だった。同情はしないが、かといって非情なだけの人間ではない。だからこそ思う。高梨はいい奴だった。だったということは今はいないということだが。
 俺を構ってくれた高梨、そして信頼を寄せた俺。今度は邪魔だと見なしたあの糞親父は始末したのだという。実際にその場面を見たわけじゃないから真相は知り得ないが、血も涙もないあの男のことだ。始末するのに一瞬の躊躇いもないだろう。味方の居なくなった俺は毎日、そう、毎日だ。何もせずに過ごしていた。声を出す機会がなかったから声の出し方を忘れた。そしてどこからどうやって来たのか、いつ現れたのかさえも分からない程感覚が鈍っていた俺に甘い毒が舞い込んできて、そして俺は毒に呑まれたのだ。
 医療所で暫く過ごし、そして家に帰ったが、勿論俺の居場所はない。前と違うのは、ただ毎日を何もせずに過ごすのではなく、苛々した奴らのサンドバックと成り果てた。蹴られ、殴られ、折られ、しかし俺は生きていた。違う、生かされているのだ。都合の好い操り人形の玩具として――。




「初めまして、神田智裕です。ヨロシクオネガイシマス」

 心にも思っていないことを言った為か、棒読みになってしまった。明らかに歓迎ムードではない空気の中、俺は頭を下げた。今度は疎らに拍手が返ってくる。俺はマスクの下で口を歪める。

「…神田くんの席は、そこだから」

 担任の男は俺を視界に入れないようにすると、早口でそう告げた。俺は小さく頷き、指差されたところへ向かう。こそこそと囁き合う奴らを一瞥して席に着く。俺を見る目はまるで汚いものを見るようだった。――それも、仕方ないか、と思う。ボサボサの髪に大きなマスク。夏だというのに暑苦しい長袖のシャツ。しかもそれは薄汚れていて皺ができている。こんな不潔そうな姿のやつを笑顔で受け入れる奴がいたら見てみたいものだ。
 別に俺はこんな格好、好きでやっているわけではない。しかし、傷を隠すためには仕方なかった。それに、ここでの目的を果たすためにはこのほうが都合がいい。