大穂に一歩近づくと、あからさまにびくりと肩を震わせてずりずりと音を立てながら後退りした。俺は今どんな顔で大穂に映っているんだろう。眉を顰めるのはもう癖になっているから、大穂にとっては怖い顔なんだろうな。…非常に申し訳ない。
 これ以上近づいて怖がらせたくないし、下手に話しかけるのも大穂の立場から考えると、やめた方がいいと思う。俺は大穂から視線を逸らして、荷解きを終えていた自室へと足を進める。後ろで安心したように息を吐いたのが聞こえた。
 部屋に入ると、ベッドに横になり、ヘッドフォンを装着する。ベッドの横にある小さいテーブルからリモコンを取り、再生を押す。流れ始めた音楽に目を閉じ、世界観に浸る。ロックやへヴィメタ、バラード諸々、何でも好きだが最近のマイブームはクラシックだ。クラシックの中でも、特にヴァイオリンを良く聴く。オケや他の楽器も凄く好きなんだけどな。
 今流れているサラサーテのツィゴイネルワイゼンも、後半の部分は弾く人によって印象が全く違う。俺的にあそこは勢いあった方が聴き応えがあると思う。それにしても、あれ指が攣りそうだよな。
 疲れからか、欠伸が止まらない。このまま寝てしまおうか。大穂が起きている時にリビングを行き来するのは気が引ける。ごろりと寝返りして、後頭部のところで手を組む。
 その時だった。

「……ん?」

 微かに音がした。ヘッドフォンを外し、耳を澄ますと、それは控えめのノックの音だった。驚いて俺は数秒固まる。え、今、ドアの向こうにいるの大穂だよな? お、俺に何の用だ…?

「あ、あの、え、と」

 俺は慌てて立ち上がり、ドアを開ける。いきなり開いたからか、目を丸くして硬直した大穂。

「よ、用は」

 何とかそれだけ言うと、俺はじっと大穂を見つめた。

「あ、お、俺、名前聞いてなかったなって…。あっ、その、迷惑だったらいいんですけども…!」
「へ…」

 予想外の言葉に目を気の抜けた声が漏れて、丸くする。
 なまえ? ……名前?
 失態に俺は顔を青くする。俺は馬鹿か! 人に名前訊くだけ訊いといて部屋に篭るとか何て感じが悪いんだ!

「わっ、悪い! お、俺は栗原翼だ」