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 男の手は驚く程冷たい。気温の所為かもしれない。しかし、流太郎はそれだけではないような気がした。手の冷たい人は心が温かいなんて迷信に違いない。
 首を掴む力が増した。悲鳴を上げそうになるのを必死に耐え、目をぎゅっと瞑る。車を蹴ったのは、確かに悪かったと思う。だが、傷は付けども壊していないのに、普通ここまでするだろうか。いや、今はそんなことを考えている余裕などない。流太郎はじっと男の行動を待つ。一発くらいなら、甘んじて受けられるのだが。流石に殺しはしないだろう。流太郎は思い込んだ。
 男が背後でふっと笑う。楽しそうな笑い声ではない。明らかに人を馬鹿にした声だった。顔など見ずとも、それくらい馬鹿な流太郎ですら分かる。ギリ、と歯を噛み締めたところで突然体が解放された。――最悪な方法で。
 首を掴んでいる手で投げ飛ばされた流太郎は、受身を取ることができないまま思い切り床に叩き付けられる。頭を強打したが、不幸中の幸い、先程歯を噛み締めていたお陰で舌を噛むことはなかった。痛いことには変わりない。そして、流太郎は一方的な暴力を受けたことがなかった。頭を押さえて起き上がろうとすると、腹に黒光りする高級そうな靴に凄まじい力で踏まれる。胃の中の物が這い上がってきそうで、再び口を噛み締めた。ぐりぐりと爪先が鳩尾に入る。――痛い。頭には、それだけが占めていた。
 流太郎は男を見た。矢張り、美しい男である。ぼんやりと見つめていると、男がチッと舌打ちをして足を退けた。そしてしゃがみこむと、ニヤリと笑う。髪を鷲掴みされ、強制的に上向かされると、そのまま顔を殴られた。ごき、という音が無音の裏路地に響く。男の手には装飾品が身に着けられていたから、痛みは何倍もあるだろう。
 焼けるように頬が熱い。殴られたショックで目を見開く流太郎に、続けてもう片方の頬を一発、二発、三発――。そこから、流太郎は目を瞑り、歯に力を入れて必死に耐えた。

「…何か言えよなぁ、つまんねえ奴」

 酷く冷めた声だ。きっとこの鋭利な声も、魅力の内だろう。己が蔑まれているのにも関わらず、流太郎はそんなことを考えていた。慣れとは怖いもので、痛みは以前より感じない。

「もっと、泣き叫べ、俺を憎めよ屑」

 流太郎はハッとして男を見上げた。眉が寄る。男は目を細めて、髪を掴んでいた手を放した。当然無防備な頭はコンクリートに落ちる。じくじくと痛覚が戻ってきた。タラリと垂れてきたものは最初鼻水かと思ったが、口元まで達したそれを少し舐めてしまった時分かった。鼻血だ。恐る恐る頬を触ってみると尋常じゃないほど熱を持って腫れている。

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