10










 俺は走った。それはもう走った。メロスも吃驚仰天するくらい走ったかもしれない。――というのは、勿論大袈裟だが。
 それからどうやって家に帰ったか覚えていない。寧ろ帰れたことが奇跡だ。外は真っ暗になり、俺は涙が乾いてパサパサになった頬を放ったままふらふらと家に入る。丁度リビングから出てきた郁斗が笑顔を浮かべた。

「あ、兄ちゃん、お帰り。遅かったね――って、ど、どうしたの!?」

 笑顔は直ぐに驚愕に変わる。鏡は見ていないが、酷い顔をしているに違いない。俺は郁斗の相手をする気すら起きなくてそのまま横を通り過ぎようとした。しかしそれは郁斗が俺の手を掴んだことにより妨げられた。

「…兄ちゃん、泣いた? 何かされたの? 怪我はない?」

 探りを入れるように覗き込んでくる郁斗の顔を避ける。目を丸くし、傷ついたように顔を沈ませる郁斗に罪悪感が募ったが、今はそっとしておいてほしい。俺はふいと視線を外して階段を上がる。郁斗は付いてこなかった。














 ベッドに倒れるように寝転がる。しんとした空間だからか、今日あったことがぐるぐると頭を掻き乱し始めた。

「くそ…」

 じわりと涙が浮かぶ。思い返せば、俺凄い女々しいよな…。ただ、嫌がらせでキスされただけだろ。ファーストキスでもあるまいし…。いや、公共の場でされたのは屈辱だったけど。

「……嫌がらせ、か」

 何故だかその言葉が重くのしかかる。俺は生徒会長のことが嫌いで、それは向こうも同じだ。
 そういえば、俺が泣いた時、どうして生徒会長はあんなに困惑していたのだろうか…? 普段の様子だったら、侮蔑するか、鼻で笑うかするだろうに。まあ、そんなこと考えても仕方ないか。
 俺はごろりと仰向けになり、天井を見つめる。男の唇ってのも案外柔らかいもんだなとぼーっと考えた。そしてキスされた時の至近距離にあるボヤけてても綺麗な顔がパッと頭に浮かび赤面する。無意識に唇を撫でながら触れた唇の感触を思い出していた俺はハッとし、口をごしごしと擦る。
 これは、あれだ、生徒会長が美形すぎるからいけないんだ! 俺は赤くなった顔を誤魔化すように呟き、目を閉じる。

「会いたく、ねえな…」

 小さく呟いたそれは、思いの外寂しそうで、俺は自分の訳の分からない感情に頭を抱えた。
 こうして最悪な一日はモヤモヤが晴れないまま終わりを迎えたのである。

[ prev / next ]

しおりを挟む

22/30
[back]