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 優治先輩は中にいるんじゃなかったのか。だから、気付かれないうちに帰ってしまおうと思っていたのに。

「何でこんなところに…」

 思わず口から出てしまった言葉に、優治先輩が眉を顰める。

「何でって、そりゃこっちの台詞だ。ここはお前みたいな奴が来るところじゃない」

 鋭い探るような目。苛立たしげに吐かれた言葉。――お前みたいな奴が来るところじゃない。その言葉は俺の胸に深く刺さった。熱いものがこみ上げてくる。気を抜いたら泣き出してしまいそうだった。口を開けば言葉は嗚咽に変わってしまいそうで、そんな姿を晒したくない俺は、口を噤んだままだった。

「おい…」

 何も言わない俺に痺れを切らしてか、こっちへ一歩近づく。

「優治様、どこにいらっしゃいますの?」

 可憐な声が俺たちの空気に割って入った。恐らく、あの女性だ。優治先輩は一瞬だけ動揺する。俺はその瞬間に、優治先輩の横を駆け抜けた。

「おい! …おい待て大樹!」

 背後で優治先輩が叫ぶ。女性の声が聞こえるが、優治先輩は構わずこっちへ向かって来ているようだ。きゃ、という悲鳴に、俺は思わず立ち止まってしまった。振り返ると、綺麗なドレスの女性が尻餅をついている。その女性を放置し、優治先輩が俺の前までやってきた。その顔は、最近では向けられることが少なかった、怒りの表情。

「先輩、あの人が…」
「どうでもいい。それより今は――」
「どうでもよくないでしょう」

 優治先輩は溜息を吐く。そして、苛立ったように舌打ちをした。逃がさないためか、俺の手首を力強く掴んで、真由と口にする。先輩越しに見えた真由ちゃんの表情は青ざめていた。真由ちゃんのこと、気付いていたのか。つまり、真由ちゃんが俺をここに連れてきたことも分かっているはずだ。どうしてここにいるのか分かったのに、どうして俺を捕まえたままなんだろう。

「…そいつ、頼んだ」

 そいつ、と呼ばれた見合い相手の女性の目が驚きに見開かれ、恐ろしい目で俺のことを睨む。俺は目を逸らした。少しだけ優越感を覚えたなんて。最低だ。
 真由ちゃんがふらふらと女性に近づく。同じようにぺたりと座り込んで、俯いてしまった。そのまま動かない二人に、今度は不安になる。

「行くぞ」

 俺は優治先輩に手を引かれる。掴まれた手首の痛みは、心の痛みの表れのようだった。

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