ιの話(二の句が継げぬ)

(side:ハートのトランプ)





 俺は見慣れた天井を見つめ、ふうと溜息を吐いた。そして、目を瞑り昨日のことを思い出す。

「ιと申します。どうぞお見知りおきください」

 全身真っ黒に包まれた見た目のιという人物にごくりと唾を飲む。怪しすぎると思った。けれど、女王様が紹介する人なのだから、信用していいのかもしれないという気もする。肌が見えている部分は目だけだ。真っ黒な闇の瞳。ふと目が合った。じっと見ていると飲み込まれそうになって慌てて目を逸らす。

「で、アンタ何もんな訳?」

 警戒心剥きだしで睨む三月ウサギさんを興味なさそうに一瞥し、ウエストポーチから数枚の紙を取り出して眺めた。

「えーと、ああ、貴方は三月ウサギさんですか。なるほど」
「……アァ?」

 意味深に呟いたιさんはそれ以上何も言わなかった。三月ウサギさんは暫くじろじろとιさんを観察し、ふんっと鼻を鳴らして顔を背けた。

「私はチェシャ猫さんを連れ戻したいと思っています。けれど、それには貴方たちの協力が必要です」
「俺たちの力…?」

 ヤマネが呟く。その声と顔は真剣そのもので、余程チェシャを連れ戻したいのだと感じた。でも、俺だってそれに負けなくらいチェシャの帰還を願っている。きっと、黙っている帽子屋さんや白ウサギだって、――アリスだってそう思っている。
 チェシャが帰ってくる方法があるなら、どんなことだってやりたい。俺はιさんを見つめた。

「この中の二人だけ、人間界に行ってもらいます」
「はあ!? んだそれ、意味分かんねーんですけどォ?」
「この世界の住人が大勢行ってしまったら均整が取れないんです。だから二人のみでお願いします。ああ、帰りのことは安心してください。ちゃんと帰りたい時に帰れるように道を作ります」
「…? それでチェシャをこっちに連れ戻してきたらいいんじゃ…」

 アリスが不思議そうに呟いた。確かにその通りや。期待を込めてιさんを見つめたが、目を伏せて首を振った。

「それはできません。無理矢理連れて帰ろうとしたら、間違いなくチェシャ猫さんの体は捻れて死に至るでしょうね」

 その言葉にさあっと青褪める。聞いておいて良かった。もし聞いてなかったら絶対に行っていたことや。

「チェシャ猫さんの傍にはYという人物がいるはずです。――いいですか、彼を信用してはいけません」
「Y…」

 確かめるように呟いた名前。そのYというのは、一体…?

「では、最初に行ってもらう二人を選びます」

 そう言うとιさんはぐるりと俺たちを見回し、言い放った。

「ハートのトランプさん」
「……へぇ!?」

 自分の名前を呼ばれ、ドキンと心臓が跳ねる。お、お、俺……!? いや、嬉しいんやけども!
 ちらりと周りを窺ってみると、皆不満そうな顔だった。ですよねー…。

「そして、――帽子屋さん」

 空気が凍った。

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