決意(虎穴に入らずんば虎子を得ず)

(No side)

「空気に耐えられない…ねえ」

 神妙な面持ちで女王が呟いた。褐色の男は、眉を垂らして申し訳なさそうにしている。

「あの帽子屋もですか」
「みたいですわ。あんなに顔色の悪い帽子屋さん、初めて見たかもしれん」
「しかしチェシャは大丈夫だったと」
「はあ」

 ここにはいないイカレた男の青い顔を思い出しながら、ハートのトランプは言葉を待つ。

「…分かりました。向こうに行かせるのは、少し待ちましょう。…それで、チェシャの様子はどうでしたか」

 大事な民、そして大事な友人を心配していたのだろう。少し早口になってチェシャ猫のことを訊ねる。ハートのトランプは苦笑する。

「元気そうでしたわ。相変わらず自由で、……色んな奴に好かれて」
「好かれていた…。人間に?」

 ハートのトランプは頷く。女王は呆れた顔をして溜息を吐いた。

「学校っちゅーところに通ってるみたいです」
「学校…ああ、勉学に励む場所ですね」

 ιから知識を得ていた女王はなるほどと頷く。
 それからチェシャ猫の話を色々聞き出し、暫くしてハートのトランプが城を後にした。












 女王がひとり、広い部屋の中でどうしたものかと考えていると、トランプ兵が訪問者を告げに来た。告げられた名前に、片眉をついと上げる。

「通してください」

 トランプ兵は深々と礼をして、部屋を出て行く。少しして、訪問者が部屋に入ってくる。

「――何の用でしょうか?」

 すっと細められた目を訪問者に向ける。睨むように見られた訪問者の一人が、顔を強ばらせる。もう一人は、真っ直ぐと女王を見つめ返した。

「人間界に向かわせないって、どういうことだ」
「…ハートのトランプから聞きませんでしたか? 空気が合わないと」
「納得いかねえ!」
「や、ヤマネさん…」

 今にも飛びかかりそうな勢いのヤマネを宥めるように名を呼ぶ少女――アリスだ。ヤマネはアリスをちらりと見て、舌打ちをする。

「納得がいかなくとも、仕方ないことです。空気が体に合わないということが分かった以上、人間界に行くのは危険です」
「でも、七日間なら大丈夫だって、あいつ言ってただろ」
「何が起こるかわからないでしょう」

 今回は成功した。戻ってこれた。しかし、それが何度も続くとは限らない。何か起こってしまってからでは遅いのだ。それは分かる。しかし、ヤマネはやはり納得がいかなかった。アリスはそんなヤマネに胸を痛ませて、あの、と女王に声をかける。

「私、人間界にいたんですよね。だったら、空気が合わないなんてこと、ないと思います。だから、あの」
「…もしかして、行くと言っているのですか」
「は、はい。それで、あの…ヤマネさんがきつそうでしたら、すぐに報告して帰ります。だから、一緒に行かせて貰えないでしょうか。一人じゃ不安だし…」
「お前…」

 ヤマネが意外そうにアリスを見る。確かにチェシャ猫がいるとは言え、人間界にひとり向かわせるのは更に危険だ。女王は悩む。彼も、チェシャ猫に会いたい気持ちは彼らと同じなのだ。

「――頼む」
「お願いします…!」

 彼らは頭を下げた。女王は小さく息を吐いて、分かりましたと一言零した。ヤマネとアリスは勢いよく頭を上げ、顔を見合わせた。

「……こちらこそ、頼みます」

 しっかりと頷いたヤマネとアリスを見て、女王はι呼び出す。少しして現れたιに、彼らを人間界に向かわせて欲しいと頼んだ。

「分かりました」

 ではこちらに、とヤマネたちを連れて行くιを見送る。

「頼んだぞ、お前ら…」

 女王は目を瞑った。















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