夏の花火と泡沫の心

夏の花火と泡沫の心 | ナノ





「…どうすんの、これ…」


照りつける太陽に嫌と言うくらい熱せられたアスファルトを呆然と歩きながら、俺は途方に暮れていた。


どうしよう、そのままの姿で出てきてしまった…


と、言うのも。
いつものように髪にスプレーをしようとしたその瞬間に、母さんが帰って来てしまったのだ。
夜まで帰って来ないと言っていたから、完全に油断していた。


何で今帰ってくるんだよ…?と喉元まで出掛かった所で、「春乃、何してるの?」と手にスプレーを持った俺のことを疑問に思ったのだろう、母さんは尋ねてきた。
いや、だって、まさかこんなタイミング良く帰ってくるなんてちっとも思わなかった。
「何してるの?」なんて尋ねられたら、慌ててそのまま飛び出してくるしかないじゃないか。

母さん達はあの姿のことを知らないんだから。



どうするかな、これ…



途中でスプレーとカラコンを買って、いつものようになるか。
…もしくは、このままで。

蒸し返るような暑さの中、止まらない汗に更に冷や汗が追加され、首筋に大量の汗が流れる。
幾重にも重なる蝉の大合唱が今はとても騒々しく、煩わしいものに感じられた。



…いいや、もう…


一縷は前々から知っているんだし、会長だって瞳は見られていないだけで髪は見られてるんだし。
口調だって、戻しておいて今更…


この露骨に照り付ける太陽からとにかく俺は逃げたくて、駅までの道のりを足早に歩いた。
何故だか、自分を晒すことの恐怖は以前よりも消えかけていた。
錆び付いた鍵が徐々に音を立てて開いていくかのような、そんな。













「学校の外ではその姿なのか」


待ち合わせ場所の駅に二十分も早く到着し、まだ二人とも来てないだろう、と安心しきっていると、背後から突然一縷の声がするものだから「へ?」と気の抜けた声を出してしまった。
正直、まだ少しだけ「やっぱりいつもの姿にした方がいいんじゃないか」と思い悩んでいる所だったので、彼が現れたことによってその考えは一瞬にして打ち破られた。


「ちょっと事情がありまして…」


何故か敬語になってしまい、アタフタしながら彼の方に向き直ると、今まで目にしたことのなかった私服姿の一縷が立っていた。
思わず頭から足元までを眺めるように凝視してしまう。


「何、見てんの」


「…あ、ごめ、私服姿が珍しくて…」


「珍しさで言えば桜川の方が何倍も勝ってるだろ。いいのか、会長来るのに」


「いい、と思う…?」


「何で疑問形なんだよ」とクスクス笑いながら彼は続けて「そういや最近会長の前でも普通に喋るようになったな…ま、俺としては語尾を伸ばされる方が違和感だけど」と呟いた。


「会長とは…ちょっと色々あったから」


「…それで突然名前呼びになったって訳か」


「…言われてみれば、」


「…一縷、…と春乃…?」


「言われてみれば確かに」と言葉を続けようとした矢先、聞き慣れた落ち着いた声が背後から落とされた。
あ、やっぱり春乃呼びだ、と会長が呼んだ俺の名に少し驚きを感じつつも、何で突然そうなったのだろうと小さな疑問が湧く。


「…会長、早かったですね」


恐る恐る後ろを向くと、またも見慣れない私服姿の会長が呆気にとられた表情で佇んでいた。
偽りのない瞳が会長の茶色がかった瞳を捉えて、今までフィルター越しに見てきた遍くものが全て嘘だったかのような感覚に陥る。


「どうしたんですか、その」


会長でもこんなに動揺するんだ、ってくらい明らかに会長は激しく動揺していた。
俺はそんな様子を見ても困ったように苦笑いをすることしか出来なくて…。
晒してしまったことに対して時間を巻き戻してなかったことにはできなくて。


「見慣れなくて落ち着かないなら、すぐいつものように戻します、けど」


「…駄目、です」


即座に返された言葉に「え、今の会長?」とびっくりしてしまった。会長ってこんなに語気強く何かを発するような人だったっけ。


「綺麗なのに、わざわざ隠す必要なんてないじゃないですか…」


ああ、もうまただ。
綺麗、綺麗って俺は何も綺麗なんかじゃないよ。
綺麗という言葉が似合うほど、俺は高尚な人間じゃ、ないっていうのに。



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