会長視点。 | ナノ
ポタポタと雫が床へと落ちている。
茶色に色付いたそれは、一見すると「何が起きたのか」と思わずにはいられない光景だった。
その雫から視線を上に逸らすと、そこには明るい金色と黒の髪がまだらになった桜川がいる。
あまりの驚きに、一瞬己の目を疑った。
びしょびしょに泣き腫らした顔に、目は赤く充血していて見る者の心を抉る。
「…これを使ってください。風邪を引いてしまいますよ」
心の中でさまざまなことを考えた挙句、口から絞り出すことが出来たのは何ともありきたりな言葉だった。
雨に濡れたから風邪を引く、そんなことはどう考えても当たり前のことで、どうして私は桜川に対してもっと優しいことばをかけてあげられなかったのかと、自分が発した言葉に後悔する。
彼は雪のように白い手を私が差し出したハンカチへと伸ばしながら、「…汚れちゃいますよ」と小さく言った。
「…そんなことは気にしなくていいですから」
なんて綺麗な声なのだろう、と思った。
少し掠れた声は、いつもの彼からは考えられないほど落ち着いていて、美声の一言では表現できない深みを含んでいた。
そしてその中には、確実に物悲しさも含まれていた。
「……ありがとうございます」
震える手でハンカチを手に取った彼は、憂いを帯びた顔つきを浮かべながら丁寧に濡れてしまった体を拭き始める。
静かに流れていく時が、「本当に時間は存在しているのだろうか?」という疑問さえも浮かび上がらせる。
それ程に、あまりにも静寂に包まれていて、息をするのも忘れてしまう空間に私はいた。
彼が髪を拭いていく度に、見慣れた姿ではない“彼”が姿を現す。
能ある鷹は爪を隠す、と言うけれどまさしくそれを目にしているような。
この世のものとは思えない程に艶やかな姿が現れたことが、それを物語っていた。
白いハンカチが茶色に染まりゆく頃には、彼は最早別人だった。
艶のある漆黒の髪に、物悲しそうな表情を浮かべる彼は「…会長には、ばれたくなかったんですけど」と言葉を漏らす。
脳裏の中の記憶がもしかして、という一筋の疑問を私に語りかける。
以前に理事長室で目にした、あの写真。
特待生入学の書類に張り付けられていた、たった一枚の小さな写真を一瞬だけ目にしてしまった。
理事長は私がそれに釘付けになっているのを見るなり、焦ったようにその書類を隠してしまい、私もそのことに関して触れるのを躊躇ってしまった。
夜空に星屑が散りばめられたかのような瞳。
何よりも、彼の美しさに目を奪われた。
中性的、と表現するのが正しいのかは分からないけれど、とにかく彼の美しさは浮き立っていた。
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