日常を為すべきだと、刹那 | ナノ
「本当に桜川春乃なんだよな?」
店を出て一縷は開口一番にそう言った。ご丁寧にフルネームで呼ばれ、俺の心臓は高鳴る。
学園の方向へと足を踏み出すと、自分の足が震えていることに気が付いた。
「そうだよお〜よく分かったね〜」
「お前、その口調やめろ。今日も言っただろ。それに、お前の今の容姿に全くそぐってない」
「相変わらずグサグサ言うね〜これは俺のアイデンティティなんだってばあ」
俺が言うと、一縷は「さっきは普通だっただろ。隠そうとしても無駄だから」と真面目な顔をして言った。その顔が真面目さと何となく悲しみも含んでいるように見えて、心がチクッと痛む。
これ以上、嘘は付き通せないか…。
「…別に隠したかったわけじゃない」
素の口調で話すと、心の中の大きな塊が少し小さくなったような気がする。
そう言えば、学園の生徒に素を見られたの始めてだ。
一縷は一瞬驚いたような表情を浮かべ、「それが素なの?」と声を発した。
「うん、そう」
ああ、一番バレたくない人に知られてしまった。
よりによって俺のことを嫌っているであろう、一縷に。
どうなるんだろ、これから。
ばらされたらどうしようか…。でも別に一縷の弱みを握ってるわけでもないし、「俺のことは黙っていて」なんて言う義理もない。
「そっちのほうが断然いい。吐き気がなくなった」
「…別に吐いてもいいけどね…」
俺がそう言うと、一縷は今まで見たことのないくらい楽しそうに「何だお前、いつもそんなこと考えてたのかよ?」と笑いながら言った。
「…まあ」
「なんかお前、素だとさっぱりしてんのな。普段と正反対すぎて声聞かなかったら俺も気づかなかったと思うし。…このこと、学園の奴は知ってるのか?」
さっぱり、か。
さっぱりというか、ぶっきらぼうって言いたいんだろうな、とは憶測がついた。
素の俺は口数は少ないし、表情もあまり顔に出ない。それに関しては十分自覚しているし、他人から見るとそれがとっつきにくいのは分かってる。
「誰も知らない。ああ、理事長だけは知ってるけど、そのほかは全く知らないよ」
「へえ…たいそうな演技力だな。まさか今目の前にいる奴があのチャラ男だなんて、ほんっと、びっくりってレベルじゃねえよ」
「自分でも、そう思うよ」
会話をどう続けるべきなのか、何という言葉を発したらいいのか全くと言っていいほど分からなかった。学園へのたった五分ほどの道のりが永遠に感じられる。
このままこの夜空に溶けてしまえたらいいのにな、なんてことを俺はふと考えた。
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