日常を為すべきだと、刹那 | ナノ
「いらっしゃいませ」
言いなれた言葉。
俺は週に2、3回カフェでバイトしている。本来はバイトをすることは禁止なのだが、さっき理事長が言っていたようにバイトを公認されている。というか、理事長がオーナーを紹介してくれたからここで働くことができている。
バイトに何か特別な理由がある訳ではないのだけれど、何かをしていないとあのことばかりがグルグルと頭を回って、終わることを知らないから。
「ハル君、今日もかっこいいねー」
オーナーの石田さんはとてもいい人だ。本当は高校生の俺のことを雇いたくないはずなのに、雇ってくれた。高校生不可の、この店に。
「それ言うの何回目ですか」
バイトをする時の俺は、チャラ男の格好はしていない。
ストレートアイロンをかけていないので髪も癖毛のままだし、カラコンもしていない。
我ながら、学校にいるときの自分とは全くの別人だと思う。
だから、学園の人間にこの俺のことを知られることはないと過信していたのだ、完全に。
「ハル君がかっこよすぎてつらいわぁ…目の保養―…。その藍色の瞳、いつ見ても吸い込まれそう…」
「俺の何が、そんなにいいんですかね」
石田さんは俺を見るたび、かっこいい、かっこいい、と言う。
一体どこが?と思う。こんな平凡な顔のどこがいいのだろうか?
「ハルくん、これ3番に持って行って!お願いね!」
頼まれた食事を3番テーブルへと運ぶ。
嫌な予感は当たる、と言うが、この嫌な予感だけは当たって欲しくなかった。
妙な危機感がさっきからずっと俺の中に渦巻いていたのだ。危ないぞ、と。
何が危ないのかは分からない。ただ、この日々が崩されるような、そんな感覚に襲われた。
「…一縷………?」
目に留まったのは間違いなく一縷の姿だった。さっき理事長室の前で会ったばかりの、何ら変わりのない一縷が、何故かそこにいた。
嫌な予感は、これか…。
なんで?
なんでここにいる?
基本的に平日の外出は禁止されているはずだ。
外出届を出してまで行かなきゃいけない場所なのか?ここは。
…俺は、どうすれば?
他人の振りをして運ぶ、チャラ男で運ぶ…。
いやいや、チャラ男は駄目だ。仮にも今は勤務中だし、そんなことしたら他の客の目を惹く。大体、自分からバラしにいってるようなもんじゃないか、そんなことをしたら。
―こうなったらー!
「お客様、アイスティーをお持ち致しました」
こうなったら、他人の振りをするしかない。
大丈夫、大丈夫。今の俺は普段とは全くの別人だし、気づかれるわけがない。
目を合わせないようにテーブルの上に置くと、心の中で「よしっ」と言いながら即刻立ち去ろうとした、
その瞬間、一縷の切れ長な瞳とばっちり目が合った。
「…さくら、がわ…?」
ヤバい――――――!!!!!!
ば、バレた?嘘だろう?っ、嘘だろ?
「どなたかと勘違いなさっているようですが…」
これは白を切るしかない。
俺は背中に冷や汗が伝るのを感じながら出来るだけ平静を装って言った。
俺はあなたと知り合いではない、と自分に暗示をかけながら。
「…いや、桜川の声だ……」
けれど、一縷は俺が思っている以上に鋭かったみたいだ。
「…し、失礼いたしますね「ハルくん!こっちきて!」
ハル、くん…って今言いましたよね、この人。
この時ばかりは、石田さんを恨まずにはいられなかった。
もし名前を呼ばれなければ、嘘を突き通せたかもしれないのに。
冷や汗が更に増して止まらない。
今まで積み上げてきた高校生活が崩れていくかのような、どうしようもない不安感が心を過った。ヒビが入った硝子細工が美しさを欠くように、生活に一筋の影が差し込んで壊れていくようなそんな感覚。
「…ハルくん?やっぱり副会長だろ、間違いなく」
…ああ、彼は駄目だ。
一縷にここで嘘を突き通すことは不可能だろう。
後でどれだけのことを弁解できるだろうか。
「いや、あの、、…あ…えーと…えーっと…分かった…後で話す…後一時間で終わるから」
一縷は一瞬驚いた顔をしたが、「分かった」とだけ言い、読んでいた本に目を戻した。
今思えば、これが彼と接点を持った瞬間だった。
これがなければ、彼と深く関わることはきっとなかっただろう。
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