日常を為すべきだと、刹那 | ナノ
「初めて春乃君、君と出会った時に言ってたよね…『辛くて辛くて何も考えられない暗闇にいるんです』って。だから私は心配なんだ、君のことが。
少しずつじゃなくて一気に友人のことを忘れてしまおうとしているように見えてならない…今の君は」
…やめてくれ。
頼むからこれ以上心を掻き乱さないでくれ…。
「…っ…」
何も返答をしない俺を見て、理事長はどう思ったんだろうか。
苦しんでいると思った?それとも悲しんでいると思った?
「ごめんね、少し言い過ぎちゃったかな。
私も君の父親に君のことを頼まれているし、無理はさせたくないんだよ…春乃君には春乃君らしくいてほしいし、何にも嘘はついて欲しくない」
「…俺は何の嘘もついていませんよ。何も苦しくないし、無理もしてません。秋のことは思い出の一部だと思ってますから、もう大丈夫です。」
せっかく救おうとしてくれているのに、俺はその手を振り払う。この手を掴めば後戻りできない程嘘に浸かることはなくなるのに、自ら自分を苦しめる方向へ歩みを進める。
「そっか」
少しの沈黙の後、理事長はポツリと呟いた。
「本当に、大丈夫なんだね」と念押しするように彼は言葉を続ける。
「…はい、大丈夫です」
俺は、ちゃんと笑えているだろうか。
この人の瞳に信じ込ませることができているだろうか。
大丈夫、大丈夫。
俺は笑ってるじゃないか。
笑えているじゃないか。
「…話は変わるけど、今日はバイトの日じゃなかったかい?すっかり慣れて期待のホープだって石田さん言ってたよ」
わざとなのかそうではないのか、話を変えてくれたことに心底ほっとする。
「あ…そうですね。石田さんも他の方もとても親切で助かってます。本当に紹介してくれてありがとうございました。最初は接客なんて出来るか心配でしたけど、なんとかやってます」
「最初君が『バイトをしたい』って言ったとき、びっくりしたけど嬉しかったんだよ。外の世界に踏み出す勇気が出たんだなって」
……勇気………違う、……違う…
俺にはそんなものない…
「…すいません…時間なのでもう行きますね。今日はありがとうございました」
逃げるように彼から目を逸らすと、俺はここから出ようと足早に扉に手をかけた。
「…私は君が幸せであることを祈っているよ」
理事長の小さな呟きは俺には届かなかった。
部屋から出ると、思いもしなかった人物が重そうな書類を持って理事長室へと歩いてくるのがちょうど目に入った。
「あ…」
「あ…」
お互いに同じ言葉を同じタイミングで発する。
「…一縷っちじゃーん、どうしたのお?こんな所で〜理事長に用事〜?」
咄嗟のことに言葉が詰まりそうになりながらも、いつもと変わらぬ口調で話すことができた。
「まあな。ちょっと体育祭のことを相談しに」
…あれ?普通に返答が返ってきた。
いつもなら心底最悪だ、っていう顔をされるはずなのに。
こんな普通に接してくるなんてことは今まで一度もなかったのに。
「そうなんだあ〜俺はちょっと理事長と話してきたんだ〜」
おかしい、と思いながらも俺は変わらず言葉を続ける。
「…そうか…。悪い、この資料重いからもう行くわ」
スタスタと見るからに重そうな資料を抱えながら行ってしまった一縷をぼんやりと見送りながら、一つの不安が脳裏をよぎる。
「まさか、聞かれてた…?」
いやいや、まさか。
理事長室とは反対の方向から歩いてきてたじゃないか。
…気にしすぎ、だよな。
それに、扉はちゃんと閉まっていた。だから、話を聞かれてたなんてことはないはず…
そう納得して安心した俺は、このことに関してあまり深く考えていなかった。
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