無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ




「…紫陽花の絵を、描いてたんだけど」


雨に濡れてしまったせいで湿っているスケッチブックを僕の方に向けながら、彼は完成しかけているイラストを指でなぞった。


「空から降って雨が落ちてきた時、還らずの雨が降ってきたみたいだ、って思った。梅雨の雨は鬱陶しくて好きじゃないけど、紫陽花を引き立てるために降り出したんだと思ったら凄く美しいものに思えたんだよね」


「雨に濡れた紫陽花を描かせる為に雨は降ってきたのかなっ、て」と真山さんは続ける。



身を乗り出してじっくりと鮮やかな紫陽花のイラストを観察すると、精細な「ウミノ」のイラストの描き方の中に、いつも以上に切なさが含まれているように思えた。
勿論、じっと見つめたまま目が離せなくなくなるくらい綺麗で完璧な絵で、文句をつけるところなど一つもない。天才という言葉を使うところがあるのならば、真山さんのような人に使うのが正しいのだろう、と思わずにはいられない。
当の本人は、「天才」と括られることを嫌悪しているけれど。だから僕も、真山さんを安っぽい言葉で括るのはやめようと心に誓っている。


『還らずの雨?』


生憎雨が降っているせいで字を書き記すことができない。緊急措置として、僕は携帯をジャケットのポケットから取り出す。


「遣らずの雨っていうのは、帰ろうとする人を引き止めるように降ってくる雨のことだよ」


そう言うと、真山さんはしとしとと降り続く雨に手を伸ばした。


『あの、』


ずっと気にかかっていたことを、今なら聞けると思った。自然の絵しか描かないことへの疑問を、今ならば尋ねることができるような予感がした。
…寒色の自然の絵ばかりを好んで描くのには、何か特別な理由があるんだろうか。

滲んだ水彩画が視界の隅で煌めきを放つ。
この煩い雨音が、僕の高鳴る心音を描き消せばいい。


『真山さんが自然の絵しか描かないのには、何か理由があるんですか?』


頭がふわふわと揺れ動いて意識が世界から引き離されそうになる。
聞けた。やっと聞くことができた。でも、怖くて堪らない。


「…人間は裏切る生き物だから、俺は人の絵を描きたくないんだよ。信じようと心を預けても、それを否定されたらどうしようもない。…怖いんだ、人間の言葉も」


雨音によって消え入りかけた心音が、再び勢いを増す。怖くて、苦しくて、でも心のどこかで「やっぱりな」と思ってしまう自分がいた。
けれど、「聞かなければよかった」という後悔は何故なのかせり上がってこない。


「何を信じるべきで、何を信じちゃいけないのかなんて分からないよ。だったら最初から期待しなきゃいい。人と関わらなければ、傷付かなくていいしね」


僕には、真山さんの気持ちを否定するだなんて絶対に無理だ。だって人は良い面も悪い面も持ち合わせていて、どうやったってその悪い面が目についてしまうものだから。一度人間の黒い部分を知ってしまったら、信じる対象が分からなくなってしまう。


「人と深く関わって、裏切られることが怖いんだ。その癖してまだ俺は、他人を信じたい気持ちを捨てられない……本当に、面倒臭い人間だよ」


雨脚がみるみるうちに強まっていく。
真山さんに掛ける言葉を見つけられない不甲斐ない僕は、彼に何かを与えたいと思った。
彼を裏切らない明確な何かを与えたいと思った。


『真山さん』


どうかこれが、僕と彼の関係性を変える第一歩になればいい。


『僕がその絵に題名をつけてもいいですか?共同作品、作るんですよね?』


携帯の画面に水滴が飛び跳ねて、透明な雫が指に垂れる。
勇気を振り絞って真山さんの方を向くと、彼は灰色の瞳を驚いたようにパチパチとさせていた。


「……もちろん、いいけど」


数多もの水色が、色鮮やかな紫陽花に潤いを与えている。自然の美しさと真山さんの絵の繊細さを兼ね備えた題名を、絶対に見つけ出したいという責務感に駆られる。


(…沢山の青と、それが滴る紫陽花の花……空から落ちるのは、綺麗な雨粒で)


目を瞑ると、意味を帯びた言葉が脳裏で整合性を為した。あたかも最初からそうあるべきだったように、言葉は明確な意義を持っていた。


『無数の空色 滴る紫陽花』


僕は決まったばかりの題名を打ち付けると、梅雨に背を向けて静かに微笑んだ。



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