無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ




−いやー、結構本格的なカフェなんだねー。
飲み物だけじゃなくて食べ物のメニューも豊富でびっくりしちゃった。
カレーとかグラタンとか、下準備が大変そうだなって漠然と思うよ。


−まあそうだね。…楽ではないよ。やりたくないとは思ったことないけど。


−それにしてもさあ、あおぴょんはどうしてバイトしてるの?画家で十分食べていけるだろうに。
絵を描くことに集中したほうがいいんじゃないの?ほら、コンクールとかもあるんでしょ?


−…社会と繋がっていたかったから。バイトをしてれば、普通になれると思ったから、かな。
あとはあれ、高校の時に受験勉強しに頻繁にここに来てて常連だったし、大学一年の終わりに石田さんから「ここで働かない?」って言われて。それまで働いてたバイトの人が辞めるからって。そんな感じかな。











ポタポタ、ポタポタ、雫が頬を濡らす。
長引く梅雨は青空をどこかへやってしまうと同時に、気分を憂鬱なものにさせる。
同じ水色でも、空と雨の水色は彩度が違うような気がする。空の水色はキラキラしていて、雨の水色はしんみりとしていて。


(社会と繋がっていたかったから、普通になれると思った、って)


つい先日、千里先輩がカトルセゾンにやって来た時に真山さんが語った言葉が頭から離れない。


(あの時の真山さん、本当に悲しそうな顔をしてた)


千里先輩も真山さんの普通ではない様子を汲み取ったのか、その言葉の真意を尋ねるということはしなかった。
知りたいけれど、知っていけない心の傷を真山さんは負っているんじゃないか?そう思えて仕方ない時が最近よくある。


あの悲しそうな表情。他人との関わり方……
それに以前、絵を描くことについて「消えたくないから始めたことだけど、結局空っぽのままだから」と言っていた。
普通になりたいけど、その普通が分からなくて、満たされない心を埋める為に絵を描いているんだろうか。

自然の絵しか描かないのにも何か理由があるんだろうか。



ポタポタ、ポタポタ。
ぽつんと水滴が紫陽花の花びらに潤いを添えて、いかにも梅雨といった風景が大学の中に生まれゆく。


(…あ、真山さん)


いい加減見慣れたボロボロの建物の陰に隠れるようにして、真山さんは立っていた。
雨が降っているというのに、広がったままの傘はアスファルトの地面に転がっている。その光景は異様なものの筈なのに、僕の視線は真剣な表情を浮かべる彼から離せなくなる。


両手に持ったスケッチブックを遠目から観察すると、紫と青の何かが描かれているのが伺えた。
「雨で濡れちゃいますよ」と咄嗟に口から零れそうになるくらい、その色彩は鮮やかで美しいものだった。

傘と同じく地面に置かれたパレットに、雨は容赦なく降りかかる。



(…何をそんなに真剣に描いてるんだろう。雨でびしょびしょになっちゃうよ)


足を一歩踏み出す度に、ぴちゃぴちゃという音が木霊する。雨は音を紡ぎ、雨音は梅雨に梅雨らしさを与える。
この時ばかりは、目の前に蔓延る青を美しいと思った。



静かに近付いた訳ではないのに、真山さんは一向に僕の姿に気がつかない。それだけ何かを描くことに夢中になっているということなのか。


(…うわ……紫陽花だ)


死角になっていて見えなかったけれど、真山さんが佇んでいる前方には色鮮やかな紫陽花が命を輝かせていた。遠目では紫と青の色彩が何を描いているのか分からなかったけれど、その対象をはっきりと目にしたことで腑に落ちる。


(綺麗だ。…紫陽花には雨がよく似合うな)


四つ葉のクローバーのような形をした花びらが折り重なる紫陽花は、雨を引き立てる為に生まれてきたんじゃないだろうか。


「…翡翠くん?」


落ちている傘をそっと片手で拾った刹那、囁くような真山さんの声が聞こえた。僕より背の高い彼を雨から守るには、精いっぱい腕を伸ばさなければならない。
その様子を見た真山さんが無邪気な子供のようにクスッと笑った。


「背伸びしないと届かないの?」


ふざけて言ったんだろうけど、悪意ない言葉に僕はむっとしてしまう。思わず頬を膨らませると、真山さんは「ごめんって」と再び笑いながら言った。



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