無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ


カウンター越しの石田さんが「はいどうぞ」と熱々のコーヒーを僕達に差し出す。
サロンを着たままの僕は「お客さんがいるのに従業員の僕が客席で飲んでいいのかな」と思いながらおずおずとカップを手に取った。


「ひいちゃんは一年だから知らないと思うけど、三年に『儚げ王子』とかいうヤバめのあだ名を付けられてる完璧優等生君がいるのね。
それが本当にすっごいの。人間とは思えないくらい綺麗だし、今すぐ消えちゃいそうなくらい儚くて、…しかも、中高でも生徒会長とかやってたみたいだし」


凄い人がいるんだな…、と半ば他人事のように話を聞いてしまう自分がいて、それを見た千里先輩が「嘘じゃなくて本当の話だからね?」と慌てたように言う。


「でも、その完璧優等生は自分に嘘をついてたんだ」


囁かれたたった一言の言葉に僕の神経は奪われる。
見たこともない知らない人の話にこんなにも神経に耳を傾けてしまうのはなんでだろう。


「その人は『完璧な自分』じゃないと自分に価値がないと思ってたんだ。優秀で隙のない完璧な優等生じゃないと、母親に愛されない。愛情が貰えない。
それで愛されるために自分を捨ててきたせいで、本当の自分がどんな姿なのか分からなくなった。
……大切だと思える人に出会うまではね」


(…僕が『声がない自分』に価値がないと思うのと同じような感じ、なのかな)


「その大切な人に出会うまでは優等生君は自分の価値を全部母親に委ねてたんだろうね。
だけどありのままの自分を肯定して愛してくれる人に出会ったことで、『優等生の自分じゃなくても価値があるんだ』って思えるようになったんだと思う。
…だからね、ひいちゃん」


千里先輩はそこで言葉を切ると、コーヒーを口に含んだ。
そして、僕が持っているペンにそっと人差し指を添えた。


「自分で自分のことを認められないのなら、他人に認めて貰えばいいんだよ。
ひいちゃんにとって大切だと思える人を見つけて、その人に価値を与えて貰えばいいんだ」


(価値を、与えてもらう?)


自分の価値を僕じゃない誰かに与えてもらうなんて、考えたこともなかった。
僕の価値は僕が決めるものだし、そうしなければいけないものだと思っていた。


「それに、喋れなくても言葉がない訳じゃないでしょ?あおぴょんが言ってたよ。一緒に共同作品を作るんだって?ひいちゃんが言葉を考えるんだってね。…いいな、楽しそう。
あおぴょんが誰かと関わろうとするなんて珍しいことだよ。かれこれ2年間関わってきたけど、彼が誰かと関わりを持ったのを見たことがないもん」


ー喋れないんでしょ?なら書けばいいだけだ。別に意志疎通が出来ない訳ではないんでしょ?


真山さんが以前僕に言った言葉が、今千里先輩が言った言葉とリンクする。

…ああ、そうか。
こんなにも居心地がいいのは、彼等といると自己否定をしなくて済むからなのか。


「多分だけど、ひいちゃんはあおぴょんにとって大切な存在になってるんじゃないの?
そうじゃなかったら、こんなに深く関わろうなんて思わないよ。一緒に作品を作ろうって誘って、バイトまで一緒にするなんて」


(真山さんにとっての僕は一体何なんだろう)


確かに驚いた。彼が僕のことを他人に話していただなんて。真山さんは自分のことを口に出さない人間だと思っていたし、ましてや他人である僕のことを口に出すなど思ってもいなかった。
誰かにとっての他人な存在になれているという事実に、恐怖である筈なのに無意識に頬が緩む。


『僕は臆病者だから、真山さんとの距離の取り方が分からないんです。それに、大切な存在になれることは嬉しいけど、でも、こわい』


嬉しいけど、こわいんだよ。
矛盾甚だしい心の叫びに緩んだ頬が硬直する。


「今は怖くても、嬉しさが勝る日が絶対に来るよ。
まずは自分を認めないと何も始まらないよ?」


苦くて少し酸味のあるコーヒーが口の中にじんわりと広がる。
僕の心の傷が、ぽろぽろと染み出していくような気がした。

何故か僕は、「幸せな夢が見たい」と漠然と思った。



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