無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ



「あのお客さんに合うカップを選んで。それでカフェラテを入れたら、カレーの仕込みをしちゃってくれる?」


ガヤガヤと賑わい始めた店内をぐるりと見渡しながら、真山さんが僕に指示を出す。
カウンター式になっている厨房は開放的であると同時に、それだけお客さんとの距離が近いということだ。


「慌てなくても、平気だから」


僕が内心焦っていることを悟ってか、心を落ち着かせる言葉を彼はくれる。
約二十席程ある席は既に満席に近く、子供連れの親子や仕事帰りの会社員、学生服を着た高校生など年代も性別もバラバラのお客さんが目に入る。


(平常心、平常心)


コーヒー豆を手に取り、それを優しく機械の中へと入れていく。香ばしいコーヒーの香りがカウンター全体に広まり、僕は間髪を入れずに冷蔵庫から牛乳を取り出した。


この感覚は嫌いじゃないな、と思う。
誰かの為に何かをしたり、やらなきゃいけないことを次々とこなしていったり。

ただ今は、大学でのこととさっきの真山さんとのことが脳裏に鮮明に焼け付いていて、一つのことに集中することが出来ないというだけで。
処理できずに居場所を見失った思考が心中でごちゃごちゃになる。


温められたフォームドミルクを一旦軽く整えてから、陳列棚に所狭しと並んだコーヒーカップの中からシンプルな茶色いカップを選んだ。


「翡翠くん、大学で何かあった?」


熱々のエスプレッソの上にミルクを注いでいると、ホワイトソースの仕込みをしている真山さんから声を掛けられた。


「頭の中がいっぱいいっぱいって顔してる。いつもに増して緊張してるし」


仕事中なのに、こんな風に心配を掛けてしまう自分が情けない。
いつもそうだ。感情に振り回されて、一つのことを考え始めると止まらなくなる。それが一つじゃなく二つになったのなら、尚更だ。


こくんと頷くと、彼は苦笑しながら「やっぱりね」と続ける。


(さっきの箱のことも、要因なんだけど…)


そうは思うも、真山さんはさっきのことなどさっぱり忘れたような様子だった。ギスギスとした緊張感は全くなく、いつも通りの真山さんのままだ。



「優しすぎるから、言葉が頭の中で停滞しちゃうんだよね」


(優しすぎる?僕が?)


優しんじゃなくて、臆病者なだけだろう。
僕を庇ってくれた川辺君に対しても、結局感謝の気持ちを述べることができずじまいだ。
グループワークが終わった後、「これからよろしくな。困ったことがあれば言えよ」と言ってくれたのに、僕は頷くことさえ出来なかった。

我ながら、自分のことが本当に嫌になる。


「今もそうやって、頭の中で言葉がごちゃごちゃになってるんでしょ?」


綺麗なハート型を描きかけていたふわふわのミルクが一雫手の甲にぽつん、と落ちた。


…声が欲しい。
海を亡くしてから消え去ってしまった「誰かと会話をしたい」という欲がどんどんと強くなっているのが分かる。
僕は、僕の声で真山さんと話がしたい。伝えたい意思を、伝えたい時に口に出したい。


(僕は−)


ふいに重い木の扉がギイ、と音を立てて開く音がして、僕はそちらに気を取られる。
茜色の夕日の光が店内に差し込んで、視界が一瞬遮られる。


「お〜!あおぴょんまじで働いてんだ〜!冗談だと思ってたわ」


扉を開けて入って来たのは僕とそんなに歳が変わらなそうな男性だった。
フレームの大きめな黒縁眼鏡とアッシュグレーの髪色が印象的で、いかにも今時の大学生という容貌をしている。


「そのあおぴょんって何なの?」


真山さんの小さな呟きは、僕にしか聞こえなかったようだ。
僕は困ったような、でも少し楽しそうな表情を浮かべる彼とちらりと目配せをする。
出来上がったカフェラテをトレーに乗せ、注文をしたお客さんのところへ持って行こうと一歩を踏み出した。


「…あ。君が噂の翡翠君……うーん、翡翠君じゃ可愛くないな〜。ひいちゃんって呼んでもいい?
確かにあおぴょんが言ってた通り、子犬みたいだね」


黒縁眼鏡の男性は二席空いているカウンター席のうちの一席に腰を下ろしながら、僕に視線を合わせる。
人懐っこそうな黒々とした瞳がレンズの奥でゆらゆらと揺れた。



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