無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ



真山さんの部屋の扉が開いているのを見るのは、久しぶりだった。
ここへ越して来てから何度か部屋の中を見たことはあるけれど、それは真山さんが出掛ける直前であったり、たまたま扉が開いた所を通りかかったりした時だけだった。


同じ空間に住んではいるけれど、僕たちがお互いの部屋を往き来したりすることは殆どない。五月のあの日、僕が引っ越してきたばかりのあの時以来、彼が僕の部屋に足を踏み入れたことはなかった。
お互いのプライベートを尊重しようということなのか、単純に興味がないだけなのか分からないけれど、時折悲しい気持ちになる。


(…すごい画材の数……部屋というより、アトリエみたいだ)


好奇心を抑えられなかった僕は、30センチほど開いている扉の隙間から部屋の中を覗き込む。
ちらっとした見たことのなかった真山さんの部屋は、じっくりと観察すると興味の惹かれるものばかり置いてある。


イーゼルに立てかけられたキャンバスと、床に置かれた描きかけの水彩画。何本あるのか見当もつかない画筆は、用途別に缶の中に纏められていた。
何よりも一番目を引いたのは、寒色ばかりが取り揃えられた大量の絵の具だった。


(…そう言えば、)


「ウミノ」が描いた絵は、寒色の色使いをした絵画が多かったような気がする。四月に描いていた桜の絵は桃色の絵の具が使われていたけれど、桜を描くのだから当然だろう。


(真山さんが描く絵って、自然ばっかりのような気がするなあ…。それも雨の絵とか、山の絵とか、海の絵とか…)


メディアが取り上げる真山さんの絵も、自然をモチーフにしたものばかりだったように思う。
もしかしたら、彼は人物の絵を描かない主義なのかもしれない。


(ウミノって名前も、もしかして「海」からきてるのかな?どうなんだろ)


僕は彼のことを知らなさ過ぎる。
かく言う僕も自分自身のことを真山さんに伝えられていないから、お互い様だ。
引かれた一線を打ち破ろうとすると、どうも躊躇ってしまって駄目なのだ。
深く関わろうとしたことによって、距離が開いてしまったら?と思うと尋ねたいことも尋ねられなくなる。
それもあるし、僕は真山さんのことを知ることによって、 彼が大切な心の拠り所になることを恐れているのだろう。


(…?なんだろう、あれ)


ふと、ベットの下の隙間に置かれた茶色い箱に目がいった。普段なら絶対に見向きもしないだろうに、何故だか何の変哲のない普通の箱から目が離せなくなる。


(…気になる、けど)


人の部屋に勝手に入ることだって躊躇われるのに、人様の所有者に触れるなんて。


(…駄目だ、気になる)


抗えない力に導かれるように、僕は真山さんの部屋に足を踏み入れた。そろそろと歩みを進め、ベッドの前にしゃがみ込む。
シーツ上に乱雑に置かれた緻密な線画は、上手なのは勿論のこと「これが芸術作品なんだ」と思わせるような魅力を持っている。


「それは触らないで」


埃が少し被った箱に左手をそっと触れた時、聞き慣れた声が背後からした。


「駄目だよ、それは開けちゃ駄目」


這わした四本の指が言葉の効力によって硬直する。
いけないことをしている背徳感よりも、「真山さんのさんに怒られたら、嫌われたらどうしよう」という気持ちが真っ先に浮かんだ。


後ろを向くと、サロンを着た真山さんが困った表情を浮かべながら立っていた。
バイト用に結ばれた髪が、整いすぎた顔立ちをより際立たせている。


(…っ、…どうしよ…)


どうしてこう、タイミングが悪いんだろう。
いつもの僕なら気づきもしないようなものに妙に気を惹かれた時に限って、姿を現すなんて。


「箱が気になるの?」


率直すぎる質問にどう答えを返していいかなんて、誰かが教えてくれるわけがない。
恐る恐るほんの小さく頷くと、真山さんは「…そっか」と呟いた。


「…ごめんね、見られたくないんだ」


どうして謝るの、と思う。
悪いことをしたのは僕の方なのに、どうして真山さんが謝罪の言葉を口にするんだ。


「石田さんが休憩に入るから、翡翠くんを呼びに来たんだ。もうそろそろお客さんも増える頃だし…。
下で待ってるよ」


「どうして勝手に部屋に入って箱を開けようとしたの?」と尋ねられた方がありがたかった。
尋ねてこない優しさが、僕を逆にどうしようもなく苦しめる。


彼の距離感は時に僕にとってありがたかったり、苦しかったり、一定の距離を保ってくれない。



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