無数の空色 滴る紫陽花

無数の空色 滴る紫陽花 | ナノ



雨の音が聞こえる。
ポツポツという音がアスファルトに跳ね返って、それが耳に木霊する。
雨音によって掻き消された喋り声や足音が今はとても恋しいものに感じる理由を、僕は知らない。

湿った雨の空気が嫌いな訳じゃない。
太陽が隠され透明の雫が滴る景色は、唯一無二の美しさを孕んでいる。


―じゃあ何故?
青色に侵食されたこの景色を見ていると、涙が溢れ出しそうになってくる。不明瞭ににじんだ不安定な視界の中の青色は、淀んで本来の色を忘れてしまった。

僕の知っている青は、こんな色じゃなかった。


「…であるからにして、今回は……基本的な操作を……では、グループワークを始めてください」


意識を現実に引き戻すと、ガヤガヤと騒がしくなり始めた生徒達の姿と声が目に入ってくる。
実験室の隅っこに座る僕は、日常の一コマに身を馳せながら周りを見渡した。


(グループワーク…嫌だな…)


喋れないことで周りと一線を引いてしまうのか、それとも元々の性格がそうであるのか。恐らく後者なんだろうけど、声が出せないのも相極まって新しい知り合いを作ることが怖い。
他者から向けられる幾重もの視線が、怖くて堪らない。


「グループワークって何人?」


「四人じゃん?だからこのまんまでいいと思う」


隣から聞こえる普通の会話にも、僕はどきりとしてしまう。僕の存在を周りから認知されることが、僕のせいで周りに不快な思いをさせてしまったらと思うと、心配で息が詰まる。


「じゃあとりあえず自己紹介からいくかー。俺は川辺湊斗。皆で仲良く実験していきたいと思ってるんで、楽しくやっていきましょう。
…じゃ、…赤見君?だっけ?お願いします」


(…僕の番だ。…どうしよう…)


大学に入学してからも何度かこういう風に自己紹介をする場面があった。僕はその度にノートを取り出して、自分が話せないのだということを周りの人達に説明した。

哀れみの視線を投げかけてくる人もいたし、煩わしそうな視線を向けてくる人もいた。
そのどちらも、僕にとっては苦痛極まりなかった。

他の人と接するように、普通にしてくれるだけで。
それだけで、いいのに。



「話す」という簡単な行為を出来ない僕は、心臓をバクバクさせながらノートを手に持つ。
それに注目する皆の視線が、僕の小さな勇気をもぎ取ろうとする。

そんな奇異の視線を向けないで。
僕は、あなた達と同じように喋ろうとしてるだけなんだよ。


「あ、もしかして君、」


真正面に座る短髪の男子生徒がそう呟いた。


「喋れない病気、とかいう人?皆も覚えてるだろ?オリエンテーションの自己紹介の時に喋んなかった人」


「あー、いたなーそんな人」「インパクト抜群だったもんな」とグループの他のメンバーも口々にしだす。


僕はもうどうしたらいいのか分からなくて、自分の存在をここから消したいと願うばかりで、右手を強く握りしめた。


「赤見くんさ、喋れないんじゃなくて喋りたくないだけじゃないの?全部演技なんだろ?
今だってそうやって俯いてばっかりで、自分の意思を示そうともしないじゃないか」


(違う…違う……違う…!)


喋れるんだったら、もうとっくに喋ってるよ。
…勇気がない臆病者の自分が嫌だ。声という道具を奪われた所為で更に臆病者になってしまった自分が嫌だ。
自分の意思は自分のものなのに、僕はそれすら上手く扱えやしない。

「そんな言い方ってあるか?赤見だって、好きで喋れない訳じゃないだろ?君らがそうやって責め立てるから、言いたいことも言えなくなるんだよ」


ピリピリと張り詰める緊張感に居心地の悪さを覚えながらも、声のした方向に目を向ける。
声を発したのは、先程自己紹介をした川辺君だった。


「声が出ないだけで、他は俺らと何も変わらないだろ。ほら、赤見。自己紹介続けよう?」


「な?」と優しく声で言われ、涙が出そうになる。
人の言葉は怖いけど、時に僕を救う優しい言葉もある。そんな二律背反した要素が憎いけど愛おしい。


僕に「喋りたくないだけじゃないの?」と言った男子生徒は、バツが悪そうに口を噤んでいた。


『赤見翡翠です。迷惑をかけることもあると思いますが、頑張っていくのでよろしくお願いします』


救世主のお陰で意思を示すことが出来た。
それが妙に嬉しくて、僕は口元に笑みを浮かべる。

それを見た川辺君が、本当に嬉しそうに微笑んだ。



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