褐色の木目調

褐色の木目調 | ナノ



「…ふーん…。なら、いいけど。朝ご飯出来たみたいだから、呼びに来たんだ」


もやもやとしていて霧がかかっていた頭の中が、段々とクリアになってくる。それと同時に、昨日から真山さんと暮らし始めたのだという事実をはっきりと思い出していた。
正確に言うと「暮らし始めた」のではなく「バイトに誘われ、そのバイトを始めたらもれなく家もついてきた」のだけど。

信じられないほどの急展開。フィクションの世界に紛れ込んでしまったかのようだ。
自分でも、どうしてこんなことになっているのかよく分からない。


「ほら、行こう」


スラリと伸びた美しい手を差し出され、僕はおずおずとそれを取った。

不思議でしょうがなかった。世間で「天才」と持て囃され、大学では「近寄りがたい」と囁かれている人間がどうして僕なんかに構ってくるんだと。













「翡翠くんさ、バイトしてみる気はない?」


事のあらましは、あっさりとしたその一言から始まった。
「一緒に作品を作ろう」と誘われた僕は、真山さんと出会って二週間後―徐々に大学にも慣れてきた頃に再び彼と会う約束をした。
桃色の桜もすっかり若緑色に色付き、最後に残ったひとひらの花びらは、あと幾許かの命を悲しそうに終わらせようとしていた。


「バイトついでに住む所もついてくるんだけど、どう?家賃食費込みで5万円。良案件じゃない?」


(…バイト?…家賃食費込み…?)


「因みにカフェなんだけどさ」


相変わらず見るに堪えないオンボロの建物で絵を描いている真山さんは、僕が思っていたよりも突飛な人間らしい。唯一無二の世界を持っている人だとは思っていたけど、予想以上だった。
でなければ、出会って二度目の人間にこんなことは言わないだろうから。


「…と、いうか」


彼は動かしていたデッサン用の鉛筆をピタッとキャンバスの前で止めると、水色の絵の具をゆっくりとした所作で手に取る。


「というか、もうオーナーに話しちゃった。いい感じの子がいたから引っ張ってきますね、って」


(…えっ…???話しちゃった…?つまり、真山さんの中では僕がバイトするのが決定事項だってこと?その前に、真山さんてプロの画家だよね?どうしてバイトをしてるの?)


「場所はここから電車で30分くらい。最近リニューアルしたお陰でお客さんが増えちゃって、新しいバイトを雇いたいって思ってたんだって。
あ、オーナーはいい人過ぎるくらいだから心配しなくとも大丈夫だよ。仕事内容も、喋らなくていいように配慮して貰えるみたいだし」


水彩絵具がパレットに敷き詰められていく。
信じられないことが続けざまに起こっているせいで、物語の主人公になったかのような感覚に襲われている僕は、小さく頷くことしか出来なかった。














「『カトルセゾン』って、どういう意味か知ってる?」


こんがりと焼き目のついたトーストを一口齧りながら、真山さんが僕にそう尋ねる。
不思議なことに彼が為す所作の一つ一つが芸術のようで、物憂げで儚げな雰囲気が稀有な世界観を構築してしているように感じられる。


「…蒼人君。いいことを言ってくれたね。この店の名前には僕も思い入れがあるから、ここは一つ翡翠君に説明しておきたい所だったんだ。いいタイミングだったね」


確かにオーナーの石田さんは、いい人過ぎるくらいにいい人だった。優しくて、心が寛大で、どんなことも受け入れてくれる陽だまりのような人。

三週間程前に真山さんに連れられて、初めてこの『カフェカトルセゾン』に足を踏み入れた訳だけど、どういう訳だか初めて来たような気がしなかった。
こじんまりとした店内は木目調のテーブルと椅子に統一されていて、木材に包まれた落ち着いた空間が、煩い外との隔たりを意識させた。



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