無彩色の桜 | ナノ
静寂の耳鳴りは夜の寂しさを募らせる。
10センチほど開けっ放しになっている窓からは春の匂いが漂ってきて、僕は窓辺に左手を伸ばした。
暗闇に舞う夜桜に背を向けながら、目を瞑る。
蛍光灯に照らされた自分の左腕。
日常生活を送る分には何の問題もないけれど、人様が見たら思わずギョッとしてしまうだろう。
(相変わらず、醜い傷だなあ…)
真っ赤に爛れたケロイドは、嫌でもあの時の記憶を思い出させる。
あの忌まわしき日に。空から振り落とされたあの日のことを。
火傷を負った左腕は見るに堪えない程に醜い。けれど、僕は今生きてしまっている。少しの怪我を負っただけで、生きていくのに支障はないのだ。
事故の後、数え切れないくらい自問自答を繰り返してきた。「どうして海は死んでしまったの?」「どうして死ぬのが僕じゃなかったの?」って。
……どうしてなんだろうな。
答えはきっと、永遠に出ない。
(…ねえ、海、今日ね。本当にびっくりすることがあったんだよ)
窓辺に置いてあったお守りをこちら側にたぐり寄せて、今日あったことを反芻する。
(真山さん、って人と知り合いになったんだけどね?ビックリだよ。…プロの画家だったんだもん。海は知ってるかな?僕は名前だけ知ってる程度だったけど…)
『ー若き天才画家が新時代を作り上げるー』
『ー現役大学生画家、ウミノの素顔に迫るー』
『ー新鋭画家ウミノが捉える世界観とは?ー』
部屋の床には家に帰ってから調べた「ウミノ」についての資料が散乱していて、それのどれもが「ウミノ」を天才画家だと称賛するものばかりだった。
実際彼は今まで多数のコンクールで入賞をしているらしく、調べれば調べる程彼が遠い世界の人間だということを痛感する。
声優をしている時ならまだ劣等感を抱かなかったのかもしれない。けれど、今の何も持たない僕では自分の存在をあまりにちっぽけに感じてしまう。
(真山さんは僕が上級生に捕まっちゃったのを助けてくれたんだ。いつもの僕だったら絶対に追いかけようなんて思わない筈なのに…。なのに何でかよく分からないけど、勝手に足が動いてた。
…凄く、綺麗な人だよ。普通の人は違う唯一無二の雰囲気を持ってる人)
ープロの画家、なんですか?
驚きの余り震える手でそう疑問を記すと、彼は当たり前の様子で「そうだけど?『ウミノ』って知らない?」とあっけらかんとした口調で呟いた。
(僕ですら知ってる名前だったんだよ。今日の朝だって、テレビで特集が組まれてたくらいだもん。
そんな人が僕と一緒に作品を作りたいなんて。一体何を考えてるのかな?)
青色のお守りをギュッと握り締めると、涙がじんわりと滲んでくる。真山さんと前で流した涙といい、今流している涙といい、僕はあの日から泣いてばかりいる。
本当は泣きたくないし笑っていたい。
なのに海を失ってしまった僕は、酷く惨めだ。
(…からかわれてるのかな?声が出ない面白い奴が現れたって。
でも…、でも…っ…『喋れないんでしょ?なら書けばいいだけだ』って言ってくれた…。その言葉は嘘じゃないって信じたいよ…)
波打ち際で微笑む海の姿が真山さんと重なる。
正反対もいいところだ。
黒髪とプラチナブロンドの髪。男性らしいがっしりとした体つきと、中性的で華奢な体。青を見据える聡明で真っ黒な瞳と、色とりどりのパレットを見つめるグレーの瞳。
「…翡翠、泣かないで」
今声を発したのは……誰?
閉じていた瞳をほんの少し開け、窓辺の方向に体を向ける。
夜道にひとひら舞い落ちた無彩色の桜は、悲しそうに夜風に靡かれて消えていった。
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