無彩色の桜

無彩色の桜 | ナノ



「…君、…もしかして」


小さな掠れ声が耳に届く。


「いいや、…君、着いてきて。ここじゃあまりに話すのには不向きだ」


僕が離した腕が、僕の腕をギュッと掴んだ。血の通っていないようなひんやりとした五本の指が手首を優しく包み込む。
次の瞬間、僕は彼に引っ張られたせいで前につんのめりそうになった。


(えっ、?え?…どこに連れていかれるの?)


質問をしたくとも、強制的に歩みを進められているせいで携帯が使えない。手首を完全にホールドしている彼は、僕のことを見向きもしないで早歩きで歩いて行ってしまう。大勢の人達の視線が僕達に向けられているのに、彼はそれが気にならないのだろうか?


「裏に入るよ」


何棟もの建物が整然と並ぶ謂わば大学内のメインとなる場所を通り過ぎると、鬱蒼とした木々が生い茂る自然いっぱいの空間が目の前に現れた。人工的な空間からほんの数分と歩いていないのに、突然雰囲気が真逆になったことに僕は息を呑む。

桜の花びらが年期の入ったベンチに静かに舞い落ちる。鼻を掠めるのは葉っぱと土が混ざり合ったような独特の香りで、でも不思議と懐かしい香りのような気がした。


(こんな場所、あったんだ…)


「はい、ここ。静かに開けてね。じゃないと壊れるから」


その建物の第一印象は、正直言って最悪だった。
完全に廃屋…いいや、百歩譲って古びた校舎とでも言っておけばいいのかな。窓ガラスは透明ではなく白く濁っていて、木の壁は至るところがどす黒く滲んでいる。
どうして取り壊さないの?というレベルだ。


(ここに入るの?)


不思議なことに、「意志描写をしなければいかない」という強迫観念は消えていた。理由は分からないけれど、彼の前では言葉を使わなくとも許されるような気がした。

「開けて」と背後から言われ、僕は言われるがままに木の取っ手に指をかける。
そして、静かに静かに後方へ扉を押した。


『すごい…』


無意識に、感嘆の念が口から零れた。


僕は一生涯この瞬間を忘れないだろう。
散乱した画材道具とパレットに敷き詰められたピンクの絵の具。
そして、真四角のキャンバスに描かれた桜の花びら。
…無彩色ではない桜がふわり、とキャンバスに色を添えていた。これ程までに胸を締め付けられる絵を、僕はこれまでに見たことがなかった。


「さて、と。ここなら落ち着いて話せるからいいかなと思って。
とりあえず名前言った方がいい?…俺は真山蒼人。君の名前は?」


心臓がドキンと跳ねる。
部屋の至る所に散乱している錆び付いた椅子に腰掛けた彼は、「緊張してる?」と言葉を続けた。
僕は「この状況で緊張しない人なんていない」と心の中で呟きながら、灰色の瞳に視線を合わせる。


「喋れないんでしょ?なら書けばいいだけだ。別に意志疎通が出来ない訳ではないんでしょ?」


人は驚き過ぎると固まったまま動けなくなる生き物らしい。
高まった脈拍数が更に高まって、指先からドクンドクンいう心音が伝わってくる。

…何故僕はこんなにも嬉しいんだろう?


「…何で泣くの」


嬉しい。嬉しいんだ。
僕が話せないことを分かってくれて、僕の言葉を待っていてくれる。大抵の人間は僕が話せないと分かると哀れんだ表情を浮かべるか、困った表情を浮かべるから。
「書けばいいだけ」と言ってくれることが、僕にとってどれだけ救いの意味があることなのか。

嬉しいのに、涙が溢れた。
ううん…。嬉しいから、嬉し涙が溢れ出してしまった。


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