無彩色の桜 | ナノ
「泣かれたら、俺が困るよ」
目頭が熱を帯び、ポタポタと雫が頬を伝い落ちる。
慌てて取り出した携帯の画面に自分の涙がぽつんと落涙するのを他人ごとのように思いながら、僕は電源ボタンを震える親指で押した。
「…紙に、書いてよ」
(………?)
「俺は君の書いた文字が見たい。だから、紙に書いて」
そっと手から携帯を取り上げられ、彼は黒板に立てかかっていたスケッチブックを手に取った。
そしてそれを、胸元に刺さっていたペンと共に僕に手渡す。
涙で濡れた視界には微笑む美しい横顔が映っていた。
『僕は、赤見翡翠です』
「文字を見たい」なんて、言われたこともない。普通の人間にとっては話せることが当たり前だから、僕が示す意思表示にしか興味がない。携帯に文字を打とうが、丁寧に文字を紡ごうが、相手に伝わる内容は一緒だ。
「…あかみ、ひすい?変わった名前だね」
けれど、この人は違う。
僕が感情を込めて書いた言葉を、この人は精一杯汲み取ろうとしてくれる。
『そうでしょうか?』
スケッチブックの隅っこに書かれた文字が、今の僕の声だ。
『僕は、自分の名前が好きですよ』
涙まみれの瞳を三日月型に細めて、僕は笑うことができた。
「やっと笑ったね。…俺も、君の名前が好きだよ。君を見てると、綺麗な翡翠色の海のような感じがする」
『海?』
「そう。澄み切った海が頭にパッと浮かんだんだ。…俺が海の絵を描くのが好きだからなのかもしれないけど」
彼は椅子から立ち上がると、教卓の上に無造作に置かれている真っ青なスケッチブックを片手に取った。それは僕が渡されたものとは比べものにならない程、使い込まれた跡があった。
「君はこんな感じかな」
ぺらっと表紙が捲られ、明らかに素人が描いたものではない絵画が眼下に広がる。
僕はそれにハッと息を呑んだ。
(優しくて、綺麗で、完璧で……でも、どこか悲しい感じがする…こんなに非の打ち所がないのに、こんなに綺麗な海の絵なのに、どうしてだろう…?
青色を見ると海のことを思い出すから…?)
何層もくり為される青の連鎖が果てしなく続く空を吸い込んでしまう。波打ち際の砂浜はキラキラと太陽に照らされて、波に呑まれるのを待っているようだ。
『こんなに綺麗な絵、初めて見ました。プロの方が描いたみたいですね。僕の言葉じゃ、語彙不足で説明できなくてもどかしいです』
違うよ。僕が言いたいのはそんなことじゃない。
この人が「普通」ではなくて、0から何かを作り出して他人の心を突き動かすことに秀でてる…色の神様みたいだってことを上手く言葉にして伝えたかったんだ。
「だって俺、プロだもん。上手くなかったらやばいでしょ。…普段は絶対にここには人はいれない、っていうか君がはじめて入ったんだけどね。なんかビビッときてさ。
ねえ、君さ。僕と共同作品を作りあげないか?僕が絵を書いて、君がその絵に言葉を入れる。絵画と文学が混ざり合った作品を一回作ってみたかったから」
世界が変わるとはこういうことを言うんだろう。
大学に入学して二日目。
大切な友人を無くして声を失った僕が、「天才画家のウミノ」と出会い、一緒に作品を作ることになる。
「ねえ、駄目かな?」
ここから始まったのは、僕が声を取り戻すまでの色とりどりの、物語。
[10]
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