空のはじまり。



例えばの話だけれど。
本当に想像もつかないような夢物語のような話だけど。


当たり前だった日常が、特別視してこなかった生活が、「一か月後には終わるんだよ」って言われたとしたら、君はどうする?
目の前に映し出される世界が、頭の中で繰り出される思考が、「動け」と念じれば思い通りになる体が、自分自身の所有物ではなくなるとしたら、どうする?


「どうもしないよ」


一か月前の僕だったら間違いなくそう言ったと思う。
世の中にはどう頑張ったってどうにもならないことが沢山あって、そういう僕達が触れることを許されない漠然とした力は、僕等が泣き叫ぼうと喚こうと容赦せず襲いかかってくる。個人の感情なんておざなりにされて、強い力だけが生き残っていく。
つまり、泣き喚くだけ無駄なのだ。


……さて、と。
夢物語の中に足を踏み入れてしまった僕は、自身の体の所有権を手放してしまった。
絶望感に苛まれて流した涙を拭うことすらできなくなった。その悔しさに、濡れた頬が更にびしょびしょになった。
「助けて」の言葉も口から紡ぐことが不可能になって、唯一動かせる中指を死に物狂いで動かした。あんなに大嫌いだった母さんも、目を合わせたくもなかった父さんも、口喧嘩ばかりしていた妹も、声を震わせて泣いていた。


ごめんなさい。生まれてきて、ごめん…。僕がいることで、不幸にさせてしまってごめんなさい。


その時僕の頭の中に浮かんだのは「生きてるってなんなんだろう?」というあまりにも答えから遠すぎる問いだった。
どうせ死ぬなら、生まれてくる意味なんてないじゃんか。こんなに苦しい思いをするなら、最初から生まれてきたくなんかなかったよ。生きることもできない。死ぬこともできない。どうせ僕はすぐに死ぬだろう。

…だけど、死ぬのは怖い。
もし意識の糸が途切れた後に、二度とあの美しい空を見れなかったらどうしよう。「二度と」の概念なんてない真っ暗闇の無に取り込まれてしまったら、どうしよう。


僕は空のはじまりに手を伸ばそうとありったけの力をふり絞った。
その瞬間鉛のように重かった指先が羽のように軽くなって、朦朧としていた意識も色とりどりの光彩を映し出しながらはっきりとしたものになった。
病室のガラス越しの景色が、不思議とこの世に一つしかない理想郷のように思えた。


『貴方は、どうしたい?』


耳元で天使が優しく囁く。
どうしたいか、だって?何でそんなことを聞くんだろう。言わなくたって、分かるに決まってるだろうに。


「…僕は、幸せになりたい」


天使が僕の顔を両手で包み込みながら『どんな、幸せ?』と小さく尋ねる。


「…そうだな…。二度と失うことのない、そんな幸せかな」


目を閉じて、静かに深呼吸をする。乾いた涙の跡が妙にむず痒くて、僕は何とも言えない気持ちになった。幸福に包まれた泣かなくてもいい世界に行きたいと思った。


『貴方を空のはじまりに連れて行ってあげる。永遠の幸福を、貴方にあげる』


天使はさっきより凛とした声で言葉を発すると、僕を優しく抱きしめた。

僕は「これも夢物語の延長線なんだろうか」と考えていた。



Begging of sky


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