克服【overcome】




ガヤガヤと騒がしいカフェの一角に、母は唇を強く結んで座っていた。
久しぶりに目にした母の姿はやつれて疲れ切っていて、僕の知る母とは別人のようだった。
蒼白な顔が僕の姿を捉えると、その表情は悲痛に歪められる。

「久しぶりですね」

驚くべきくらい冷静な声が自分の口から発せられて、心拍数が少し減少した気がする。
母の正面に座りながら、自分が落ち着いていることを認識した。

天気予報は本当に当たるらしく、真っ白な終雪がしんしんと降り始めた所だった。冷たい氷の粒が地面に落とされては一瞬にして水の粒に変化して、地上の温度をみるみるうちに下げていく。
僕と母を取り囲む空気のようだな、と自嘲気味に感じてしまう。

「…こんなことして、許されると思ってるの?」

何の感情も持たない無機質な口調で、母は呟いた。
黒々としていた髪は白髪交じりになり、たった二か月の間に何十歳も老け込んでしまったかのようだった。

「ねえ、一体どうしちゃったのよ。樹ちゃんはこんな子じゃなかったじゃない。…分かってる?私の言うことは正しいのよ。私の言う通りにしていれば、あなたは間違えのない人生を歩めるの。だから誰に悪知恵を吹き込まれたのか知らないけど…樹ちゃんは私に従っていればいいの。それがあなたの幸せなんだから」

ごく当たり前の口調で母は淡々と言った。
自分に間違っているところなんて微塵もない。間違っているものがあるとすれば、それはあなたの考えよ、と言わんばかりに。

「…母さん」

僕は母の濁った瞳をじっと見つめる。

欲しかった愛情を受け取ることは、結局出来なかった。どんなに母の希望に添おうとしても、本当の自分が壊れてしまうだけだった。
僕達が普通の親子になることは、きっと、もう出来ない。

「母さんにとっての僕は、賢くて聞き分けが良くて、優等生で…。そうでしょう?…僕は母さんに愛されるために、母さんの望む多田樹を演じてきた。テストが出来なくて『お母さんのことが嫌いなの?』と言われた時、本当に怖かった…。だから、嫌われないために本当の自分を捨てることにしたんです」

「樹ちゃん、何言って―」

僕は母の言葉を制し、先に続けるべき気持ちを頭の中で整理する。

「そうしているうちに心の中が真っ黒になって、自分が誰なのか分からなくなった。僕は母さんの操り人形で、僕の意志はどこにもなかった。
…僕達の親子関係は屈折して、歪んでいる。僕はそれに気が付いていたけど、関係が崩壊するのが怖くて気が付かない振りをしてきました。
…でも、現実から目を逸らすのはもうやめましょう。僕は、あなたの望む樹にはなれない」

ゴトン、という乾いた大きな音が店中に響き渡った。
母がテーブルに両手を強く打ち付けたことで発せられたその音に、おしゃべりに夢中になっていた客の視線が一斉に注がれる。

「ふざけるのも大概にして…!これまでどんなにあなたを大切に育ててきたか知らないでしょう…だからそんな自分勝手なことが言えるのよ!折角幸せな人生を歩めるように私がレールを引いてあげたのに、それを全部めちゃくちゃにするっていうの?…あんたなんか、生むんじゃなかった!」

閑散とした空間に母の叫び声だけが響き渡る。

…そうだね。母さんにとっての僕は、自分勝手な裏切り者なんだろうね。
母さんの意志に背いた僕は、邪魔で不必要な存在に違いない。

「お互いに、お互いから解放されましょう。…歪んだ関係は歪んだものしか生み出さないんです。こんな簡単なことを、ずっと口にできなかった」

「ごめんね、母さん」と言いながらゆっくりと席を立つ。

周りの視線や囃し立てられているであろうことは、全く気にならなかった。
僕が今ここで新しい一歩を踏み出そうとしていること。その事実が何よりも大切だった。

「あなたはあなたの人生を、僕は僕の人生を生きていく。…それでいい。僕はもう、あなたからの愛情は必要ない」

母が人目を憚らず大声で泣き叫ぶ。

僕は水色の傘を手に取ると、母に背を向けて外の世界へと足を踏み出す。
何か声をかけようと思ったけれど、「もう、いい」と思った。分かり合えないのなら、分かり合わなくていい。僕は僕で、僕以外にはなれないのだから。

母を振り切る勇気が、先に進む為には必要なんだ。



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