克服【overcome】




「…コーヒーと紅茶どっちがいい?」

「…じゃあ、紅茶で」

「りょうかーい!目玉焼きの焼き加減は?半熟?固め?…それとも中間?」

「そこまで細かくなくていいよ…翔の好みで」

むすーっと頬を大きく膨らませた翔は、卵を片手で割りながら「大事なことだからちゃんと聞いたのに!」と怒ったように言う。

「醤油派ソース派塩派争いより、固さの方が俺的には大切だと思うんだけど、…樹はそう思わない?」

「さあ…そんなの考えたこともなかった」

注がれたコーヒーを両手に持ってテーブルへと運ぶ。

「やばい、パン焦げかけてるかもしんない。とってもらっていい?」

「はいはい」と呟きながら若干焦げ付いたパンにバターを塗り、お皿に乗せた。
ごく当たり前の日常の一コマのはずなのに、為すこと全てに温もりがあって自然と小さな笑顔がこぼれた。


「俺さ、今度のライブ…百人キャパの所で出来ることになったんだ。メンバーも凄い喜んでるし、今まで以上に頑張らないといけないって思ってる」

母さんと会う日が今日だということを知っているからこそ、翔は敢えてその話題に触れないのだろう。
恐れや不安を僕が感じているのを分かっているから、いつもと変わらぬ自然体で接してくれている。

「翔なら、大丈夫。諦めずに前だけを見て頑張れば、絶対に道が開けるから。…大丈夫だよ」

「嬉しいこと言ってくれるねー…正直さ、バンドの方向性がこれでいいのか?って悩んでる所だったんだよな。俺達の曲に人を感動させられる力はあるのかって」

「…あるよ。初めてライブを見た時、体に電流が走ったかと思った。曲の歌詞も演奏も、人を引きつけて離さない魅力があって…だから、自信を持って。今踏ん張れば、認めて貰える日がくるから」

ちょうど顔に当たる朝日があまりに眩しくて、思わず目を閉じた。
寒空に輝く太陽は、ほんのりとした温もりを与えてくれる。

「…変わったね、樹。前の樹だったら絶対にそんなこと言わなかったよ。これなら、もう心配しなくても平気かな」

「心配?」

「今日は母さんと会う日でしょ。あんたなんか生まなきゃよかった、とか言われて樹が傷ついたら立ち直れないな…。あー、やだやだ…、ってすげえ悩んでたんだよ?樹が苦しむ所、見たくないんだ」

…大丈夫、もう傷つかないから。
例え酷い罵倒を浴びせられたとしても、僕は僕の意志を突き通す。偽りのない多田樹として生きていく。

…決めたんだ。
怖いし恐ろしいけど、先に進まなければ囚われた世界から解放されることはない。母の手を払いのけて、綺麗な世界を取り戻すって、誓ったんだ。

「ありがとう、心配してくれて。でももう平気。…愛されなくても、僕は僕のままだから。自分を捨ててまで、母さんに依存しようとは思わない」

大丈夫。たとえ愛されなくたって、僕という個が消えることはない。









お昼頃になると、先程までの晴天が嘘のように灰色の雲が空を覆った。
天気予報によると、もう三月だというのに雪がちらつくらしい。

どうりで体が芯から冷えると思った、と考えながら玄関に掛かっていた傘を手に取る。ジャケットを羽織りながらこちらへ駆け寄ってきた翔は、同様に傘を掴みながら「じゃ、行きますか」と言った。

「うん、行こうか」

決意を固め、掌を強く握る。
積み上げてきた不正確な世界を自らの手で壊すために、前だけを見据えて。



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