克服【overcome】



暁月夜が雲の隙間から垣間見えて、一日の始まりを知らせる。
すっかり冴えてしまった目を瞬かせながら、明かりを灯さない携帯に手を伸ばした。
隣に寝ている翔を起こさないように「大丈夫」と囁くと、震える手で電源をつける。

ふと、一年半程前に読んだ文芸誌のあるフレーズが思い出された。
「哀れむことが私でした」という言葉から始まる小説は、特に何といって面白みがある訳ではなかった。寧ろ、普通だったら途中で読むことをやめてしまうような小説だった。「百合」という名の少女が登場し、人間の汚い部分が浮き彫りにされていた。感情表現がやけに丁寧で、書き手の感受性が豊かなことがすぐに分かった。
訳もなく僕はその小説に引き込まれ、こんな素晴らしい小説を書く人がいるのなら…と文芸部に入部することを決めたのだ。

それがまさか、あんな人が書き手だとは思わなかった。あんな人、と言ったら失礼だけれど、どうしてもあの繊細な文章と雨谷の姿が一致しなかった。

「あれはびっくりしたな…」

はは、と笑いながらランプの点灯した携帯の画面を確認すると、メールや電話の通知が一気に何件も表示された。
予想はしていたことだけど、まさかここまでの数だとは思っていなかった。画面をスクロールすると、メールの着信履歴はそのほとんどが母からもので、苦笑いが思わずこぼれる。

「どこにいるの?」「早く帰ってきて」「自分勝手な行動はやめて」「心配してるのよ」

一つも謝罪の言葉がなかったことに、僕は少しだけ落胆してしまった。
母は自分自身のことを省みて、息子達に間違ったことをしてしまったのだと分かってくれたんじゃないか?と些細ながらも望んでいたのに、その片鱗の欠片もなくて。
人間の本質がそう簡単に変わるわけないのだ、と僕は悟った。

高鳴る鼓動を押さえようと静かに深呼吸をしてから、前に進むための言葉を紡ぐ。

―話したいことがあります。都合のいい日を教えて頂けますか。

他人行儀で簡潔に纏められたメールを母の元へと送信すると、唐突に不安感に襲われた。
母に会うのが怖い。何を言われるのか、どれだけ傷つくことになるのか…。
自分の意志を突き通すことが、どれだけ勇気のいることなのか。

眩しい朝日が窓辺から差し込んで僕の頬に光の筋を描いた時に、突然一通のメールを知らせる通知が点滅した。

…雨谷、だった。
何故こんな時間に?と不思議に思いながらも、雨谷から連絡が来たことに嬉しさを感じている自分がいる。

―待ってる。

彼から送られたたった一言の言葉は、ぼんやりと光る画面の上ではっきりと浮かび上がって見えた。







母からメールの返信が来たのは二日後のこと。
約二ヶ月振りに連絡したのにも関わらず、事務的で素っ気ない返答だった。

僕の存在が母にとって誇れるものではなくなってしまったから、失望したのだろうか。一度も反抗しなかった子供が、母の意にそぐわない態度を取ったから。
だから、もう不必要な存在だと諦めたのか。

雨谷のメールには、返信をすることが出来なかった。
何という言葉を彼に送ればいいのか分からなくて、色々な感情がごちゃ混ぜになってしまって…、結局宛先だけ埋まっているメールの本文は真っ白なまま。



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