私と僕【I and I】




「病院でお前達を目にした時、涙がボロボロ零れた。こんなにも尊い存在が俺にもあったんだ、って。絶対にこの子達を守っていかなきゃいけないと強く思った。
そうだ…伝えてなかったな。樹が兄で翔が弟だってこと。たった三分差だけど、樹は翔の大切な兄で、翔は樹の大切な弟だ。今まで何も知らせなくてごめんな…」

ひゅう、と強い風が吹き付ける音が窓の外から聞こえてくる。
その音のおかげで、日常がいつもと変わりなく動いていることが認識できる。

「暫くの間、家族四人の幸せな日々が続いた。あいつは子育てを楽しんでる様子だったし、俺も出来るだけ手助けをした。…だけど俺の気が付かない間に、あいつの心は真っ黒になっていた。俺は大学を卒業して普通の企業に就職したけど、時々バンド活動をしてて、家を留守にすることがあったんだ。
お前達が四歳になった時だった。一週間振りに家に帰るとあいつが部屋で号泣しながら『翔を愛せない』って、そう言った…」

「愛せない…」

私は呆然と呟く。

「樹は愛せるけど、翔は愛せない。私が欲しかったのは、賢くて聞き分けのいい子だけなのよ。だからあなたに似て聞き分けの悪い翔は必要ない。ずっと我慢してたけど、もう限界だ。…あいつはそう言って俺のことを氷のような目つきで睨んだ。…訳が分からなかった。言ってることがめちゃくちゃで、全く整合性を為してなかった。だから俺は、ふざけるな、とあいつのことを怒鳴った」

「それで、もう終わりだ」と父さんは泣き笑いを浮かべながら続けた。

「あいつは逆上して…。じゃああなたが翔を育てればいいじゃない。私には樹しか必要ない。あなたにはもううんざりだ、離婚しましょう、と泣き叫んだ。
次の日起きるとあいつと樹は家から姿を消していて…。最初から存在してなかったみたいに、俺の前から立ち去った」

無言の重圧と深刻な雰囲気が息を詰まらせる。

私が一切知らなかった母の過去は、予想していたよりももっともっと凄絶なものだった。
正直言うと私はほんの少しだけ期待していた。
母が歪んでいるのは何かの間違いで、本当は私と翔を心から愛してくれているんじゃないか、って。

「離婚してから一度だけあいつに会う機会があった。久しぶりに会うあいつの姿はすっかり垢ぬけて、まるで別人みたいだった。それで、嬉しそうに言ったんだ。素敵な弁護士の人と結婚できたの。樹は優秀だし、間違いなく私の叶えられなかった夢を叶えてくれる。優秀さがあの子の存在理由だ、と」

「おかしいんじゃないの」と掠れ声で言いながら、翔が頭を垂れる。

「それを聞いた時、樹をこのままにしちゃいけない、と危惧感に襲われた。あいつが抱えてる異常な愛情の感情に、樹は揉まれてるに違いない。だから…、だから助けなきゃ…。正常な愛がある場所に連れ戻さないといけない、と思った。
なのに馬鹿な俺は、樹をあいつの所に置き去りにしたんだ。あいつと面と向き合うことが怖かった。俺は父親なのに、息子が個を否定されている事実を見て見ぬ振りをしたんだ。…最低の、父親だ」

脳裏に母の姿が思い浮かぶ。子供を普通に愛することが出来ない、ある意味で哀れな人間。私は母に今まで望まれてきたことを反芻しながら、二の腕の傷跡にそっと右手を添えた。

「…僕はずっと、母にいい子であることを望まれてきました。テストで悪い点数を取るとお母さんのことが嫌いなの?と言われたし、進路も全て母が決めてきました。…僕は優等生のまま、母の望む人生を歩んでいくんだと。母から愛される為に僕個人の感情は捨てて、操り人形になったみたいに生きてきました。…けど時々自分が誰なのか分からなくなって、どうしようもなく苦しくなった。…本当は、誰かに助けて欲しかった。母に肯定されることだけが、僕の生きている意味だったんです」

見慣れた筈の母の姿が黒く滲む。
理由は分からないけれど、何故苦しみの感情も悲しみの感情も浮かんで来なかった。母から愛されないことを、仕方のないことだと思えた。

「樹…翔…。ふがいない父親でごめんな…。
こんなことを言うのは許されないかもしれないけど、俺はお前達のことを愛していなかったことなんて一瞬たりともない。ずっとずっと、二人の息子のことだけを考えて生きてきたんだ。…分かってくれなんて言わない。嫌われて、当然だ」

翔に目を見やると、彼は唇を噛み締めながら私の瞳に視線を合わせた。
ゆらゆらと揺れる瞳は、言葉に出来ない複雑な感情を表していた。

「…樹。今まで苦しい思いをさせて本当に申し訳なかった…。これからはどうか、あいつの為にじゃなくて自分の為に生きていって欲しい。歪んだ愛情なんて受け取ろうとしなくていい。お願いだから、自分を捨てるな…。樹は樹の人生を歩んでいってくれ」 



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