自己存在【true】
熱が冷めるのは案外早いもので、シャワーがタイルにポタポタと落ちていくのを目にしながら、自分が冷静さを取り戻してきていることを感じた。
冷静さ、と形容するよりは呆然としていたのだと思う。
雨に濡れ体が冷え切ってしまったせいなのか、悪寒が体の内部からせり上がってくる。温かいお湯で包まれているのにも関わらず鳥肌と頭痛が収まらなくて、地面がゆらゆらと揺れている。
―私は、これからどうしたらいい?
「…絶対に、帰りたくない」
口にしてみると、自分がいかに母と会いたくないかが分かった。
面と向かって話しても、私の本心なんて理解して貰えない。だって母は、私のことを一人の人間として捉えていないのだから。
「…翔」
脳裏に浮かんだのは、物事ついてからまともな会話すら交わしたことのない双子の兄弟のことだった。
どちらが兄でどちらが弟なのかも分からない、関係性を断たれた存在が、頭の中で「樹」と囁く。
正直な話、自分に兄弟がいると分かった時は心底ほっとした。私のように母親に縛られずに自由に生きる存在がいたんだ、と思うと嬉しかった。
シャワーを浴び終わり、乾燥機にかけられて軽くなった衣類を身にまとう。
悪寒は治まることはなく、寧ろ段々悪化してきているようだった。
―気持ちの整理をさせて。
雨谷が浴室に入ったのを確認すると、心の中でそう呟きながら玄関のドアを開けた。
こんなぐちゃぐちゃの気持ちのまま、雨谷に頼っていたくない。私には克服しなければならないことがあって…。
綺麗な心を取り戻すことが出来たら、ここに戻って来られる気がする。
「ごめんね、…大切だから、時間が欲しいんだ」
カチャ、とドアの閉まる音がした。
雨は一時の凄まじい勢いではなかったものの、まだ降り続いていた。
輝く星を覆い隠す分厚い雲の隙間から、しとしと降りの雨が地面に落下してくる。
ふらふらとした足取りで歩みを進め、半ば無意識のうちに雨谷と以前行ったライブハウスに辿り着いた。
二カ月前の記憶を頼りにしながら、細い小道を抜けて目的地を探すことは思ったよりも容易だった。
花宮と連絡先を交換すればよかったのに、あまりの衝撃にちゃんとした会話すら出来なかった。雨谷を介して彼と連絡を取ることは可能だったけれど、真実を知るのが怖くて行動に移せなかった。
真実は、すぐそこにあったのに。
意識が朦朧とするのを感じながら地下へと繋がる階段を一歩踏み出しと所で、足がぴたりと止まる。
ここまでやって来たはいいものの、花宮がいる確証など全くないじゃないか…、と少し考えれば分かる当たり前のことに気がついたからだ。
目の前に蜃気楼が立ち込めて足元が覚束なくなる。頭痛と吐き気が一気に押し寄せて、手足は氷のように冷え切っている。
「―え、…樹?」
声が、聞こえる。
自分と同じ声質なのに、凛と透き通っている声が頭に響く。
頭を下に向けると、私と鏡合わせの様相をした人物が呆気に取られた表情をしながら「…樹?」と呟いた。
「…会いたかった」
視界が歪み、花宮の姿が二重にぼやける。
「……か、…ける…」
大きな声で言った筈なのに、蚊の泣くような微かな声しか出なかった。
暗転した視界の中で片足を階段から踏み外して、空中に体が投げ出される。
手首を強い力で掴まれたのが、消えゆく意識の中で感じた最後の感覚だった。
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