自己存在【true】




びしょ濡れの体を引きずりながら、無言で雨谷の後ろを着いていく。
着いていく、というより節ばった男性的な手にがっちりと掴まれしまっているせいで、彼から逃れることは不可能だった。

これから何が起ころうとしているのか、自分の身に一体何が降りかかるのか…。愛を与えるとはどういうことなのか。
言葉にされなくとも、何故だか理解できていた。

大通りから狭い裏路地へと入り、彼は何の変哲のないアパートの前で歩みを止めた。人一人やっと通れる程の階段を上った辺りで、玄関の鍵を雫の滴る手で開ける。

「…入れよ」

厚い雲に覆われた世界は一切の明るさを持っていない。漆黒の闇が心を貪り、すっかり夜になってしまった外の様子がガラスを通して垣間見えた。
雨谷のことを、眼鏡越しにじっと見つめる。

「…ねえ、雨谷君……」

これが、合図だった。

「…ひゃ…っ、…ん……っ」

体がベッドに押し倒され、抗えない強い力で両腕を抑え込まれる。  
口内に生き物のようにうねる舌が入り込んできて、舌先が甘く痺れる。自分の意識がここではないどこかに飛んでいってしまって、二度と戻って来られないような気がした。

首筋に冷たく湿った五本の指を這わされた瞬間、こそばゆい心地よさが脳天を突き抜ける。

「……ん、…… ふ…っ…ぅ 」
出したくないのに、恥ずかしい息の音が口から洩れ出してしまう。

チクリ、とした小さな痛みが首筋に走ったのを感じつつも、次の瞬間には着ているシャツのボタンを次々と外されてることに神経がいく。
口蓋に入り込んだ舌は器用に唾液を舐めとり、ざらついた感触は息することさえ忘れさせる。どうやったら外気を取り込めるのかが分からなくて、喉元がギュウ、と苦しくなった。

「……っ、…ん……うぅ…っ…、ぅ、」

こんなことをしている自分が馬鹿みたいに思えて、だけれど快感に深く溺れている自分がいるのも事実で、絡み合った感情が衝突してはボロボロと涙が零れる。
悲しくて苦しくて、何物にもなれない自分がもどかしくて……ただただ悔しい。

二の腕に優しい愛撫をされ、否応なしに腰が跳ねる。
傷だらけで弱い部分が全て晒されいる箇所を凝縮されていると思うと、恥ずかしくて消えたくなった。

「……っ、……やめて……っ、」

見ないで。
自分を繋ぎ止める為に付けた無数の傷は、ずっとずっと誰にも知られるけとなく自分だけのものだった。
知られてはいけない、心の叫びだった。

「偽物の愛の為に、自分を捨てる代償を払う必要はないだろう?」

耳元でそう囁かれた時、今まで苦しかったこと、悲しかったこと、捨ててきたもの、母親に普通に愛してもらえないこと。
それら全てが徐々に透明になって、濁りのない雨に流されていく感覚に陥った。
翠雨が枯渇した心にポツン、と落ちて鮮やかな色彩を持った緑や花が蘇るような気がした。

「…なあ?…樹」

名前を呼ばれ、自分の存在が地にちゃんと着いていることを認識する。
彼は、優等生の多田樹ではなく、ちっぽけな多田樹を見てくれているんだと。

「…ぃ、や…っ、見ないで…!」

何もかも受け入れて欲しいけど、受け入れて欲しくない。

もしも嘘つきの弱虫だと揶揄されたら?
こんな傷をつけて、気持ち悪いと言われたら?

嫌だ。怖い…。

「…こんなに自分を傷つけて、よく壊れなかったな」

壊れていたのかもしれないけど、それすら理解できなかったんだよ、と胸の中で呟く。
汚く傷ついた二の腕に数多もの口付けが落とされる度に、汚いものが綺麗なもので上書きされているように思えた。



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