自己存在【true】




雨に打たれながら、錯綜した頭で色々なことを考えた。

自分のこと、母のこと、花宮のこと。
そして、雨谷のこと。

雨谷にどこまで心を許していいのかが分からない。たまたま文芸部に入部したからこそ繋がりを持つことが出来た相手に、何故ここまで心を惹きつけられるのだろう。
第一に、雨谷にとっての私は何なのだろう。ただの知り合い?それとも友人…?

「……恋人?」

黒く錆び付いた朱色の裏門のすぐ側に立ち尽くしながら、自分から発せられた言葉に思わず笑ってしまう。

私は何を言っているのだろう。
馬鹿みたいだ。自分のあまりの不甲斐なさに泣き腫らした瞳がヒリヒリと痛んだ。

助けと欲しい思いと、自分じゃない誰かと結ばれたい願いは別物だ。
恋というものは、もっと純粋で甘い感覚を伴う筈だ。
それなのに、雨に濡れた崩壊寸前の私の中に蔓延るのは揺蕩う切実な感情だけ。
目を閉じて、現実の世界から逃げようと思った。けれど、視界が暗転しただけで何も変わることはなかった。

「僕は、普通の愛が欲しい…」

そう、呟いた時だった。

「…多田…っ、」

マイクを使っている訳でもないのに、不思議と雨谷の声は浮き立って聞こえた。
低くて優しい響きを持ち合わせた声色は、煩い雨音を突き抜けて耳に直接入り込んでくる。

ゆっくりと目を開けると、灰色にくすんだ世界にひとかけら綺麗な水色があった。私がいつか母にビー玉を買って貰った日に見たような、透き通った雨があった。

「…雨、谷君…」

彼は息も絶え絶え、全身もびしょびしょで見るに耐えないような様子だった。あの電話の後に、傘も持たずに慌てて家を飛び出してきたのか。そう思うと、更に涙が零れた。

―苦しくて苦しくて堪らない。お願いだから、僕を助けて――。

停滞してなかなか言葉にならない言葉を、心の中で叫ぶ。
雨谷の右耳に付けられた水色のピアスがゆらゆらと幻想的な光を放った。

「…どうしたらいいか、もう分からなくて…っ、…苦しくて…もう、僕は…、…っん……あ…、」

長身で痩身の体が、自分の体をすっぽりと包み込んだ。
覆い被さった大きな体は冷たいのに温かくて、密着したシャツを介して早まる鼓動が聞こえてくる。

「…っ……苦しい…悲しい…愛が欲しいんだ…歪んでない愛情が欲しいんだ…ねえ、僕は誰なんだ…?お願い、教えて…!」

思いの丈を何も繕うことなく叫ぶ。

優等生であろうと思ったこと。いい子でいようと思ったこと。
母に「樹ちゃん、大好きよ」と笑顔で言って貰いたかったこと。
自分の存在を必要としてくれる人を常に求めてきたこと。

例え愛される為に自分を脇道に捨てることになろうとも、それでもよかった。
だって、それ以外の選択肢がなかったのだから。
母からの愛情を振り切る勇気を持つことができなかった私は、ある意味で母に依存していたのだと思う。

「…教えて、」

しゃくりあげる嗚咽が息する行為をも苦しくさせ、雨谷の着ているシャツが私の涙であっという間に濡れていく。

「…分からないんだ…見えないんだ…僕は、愛されたいだけなんだよ…。それだけなのに…っ、…もう…、もう何もかも疲れた…頑張って勉強して、勉強して…自分の感情なんて全部捨ててきたのに…母さんの期待にずっと答えてきたのに…!…っ、…雨谷くん…僕をめちゃくちゃに壊して…」

泣き叫んでいる最中に、自分が「僕」と言っていることにふと気がついた。
意識していなかったけれど、捨ててきた自分を取り戻そうと躍起になっている時に、本来の一人称が表れるようだった。

―そうだ、思い出した―。
夏合宿の時も、学園祭の時も、感情が高ぶった私は雨谷を前にして「僕」と言っていた。

「…じゃあ、」

頭上から明瞭な雨谷の声が落とされ、無意識に体がピクン、と動く。

「―じゃあ、俺が愛を捨てるほど与えてやるよ」

雨はザーザーと降り続いている。
全てを、終わらせられるような気がした。



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