自己存在【true】
震える手で携帯を操作し、一度もかけたことのない雨谷の番号を恐る恐る押した。
私の頭の中には「助けてほしい」という感情しかなかった。
永遠に感じられる着信音の後、相手が電話に出る操作音が聞こえる。胸が張り裂けん程にドクンドクンと高鳴って、急に激しい不安感が胸を掠めた。
『…もしもし、…多田…?』
聞き慣れた雨谷の声が受話口から聞こえてきた瞬間、何故だか溢れんばかりの涙がボロボロと瞳から零れた。不安感と安心感が混ざり合って頭の中でぐちゃぐちゃになる。
『…おーい、…もしもーし、……聞こえてるのか?』
言わなくちゃ。ちゃんと自分の意志を伝えなくちゃ。押し黙ったままでは通話を切られてしまう。
なのに、喉元で停滞した言葉はなかなか音声によってならなくて、涙だけがひたすら頬を伝っていく。
『…おーい、多田?』
駄目だ…!自分の意志で、自分の言葉を伝えなくちゃ…。
今雨谷との繋がりを切り離してしまったら、私は永遠に救済者に出会えない。二度と、本当の私を見てくれる存在を見つけられない。
「……て、…けて、」
口から何とか紡ぐことが出来たのは、何とも情けない微かな言葉だけだった。
『…え……?ごめん、よく聞こえねえんだけど…』
言葉にしたいのに、言葉にできない。
私を不完全な一人の人間として気にかけてくれるのは雨谷しかいないのに。苦しみを晒せるのは彼の前でだけなのに。
『…多田、なのか…?』
驚嘆した雨谷の声が耳元に響く。
ザーザーと降りしきる雨の音と、受話口から伝うシーンという機械音が混ざり合う。
手の甲から手首、腕にかけて幾重もの水滴が流れ落ちていく。
「……お願い、助けて…」
やっとのことで言葉になったのは、それ以上も以下もない端的な意志だった。
助けて欲しい理由を電話越しに伝えることだって十分可能だった筈だ。
けれど、そんな余裕がなかった。
この絶望に支配された世界で唯一紡ぎ出せることと言えば、掠れた微かな欲望だけだった。
『おい…っ、大丈夫か?今どこにいるんだ?』
『…っ、……雨谷君……助けて…!』
この人は、私のことを心配してくれる。
私じゃなくて僕のことを見つけてくれる。ちっぽけで弱虫な僕のことを、否定しないでいてくれる。
『おい多田…っ、今どこにいる?』
息せき切った様子の雨谷の言葉に、胸が狂おしく締めつけられる。
『……大学の、……裏門のすぐそばに』
そう言うや否や、雨谷は「そのまま待ってろ!すぐに行くから…、いいな、動くなよ?」という有無を言わせぬ口調で言った。
今だけは彼の優しさに溺れることを許されたい。
自分が誰だか分からないくらいにめちゃくちゃに壊れて、何もかも忘れてしまいたい。
歪な愛なんていらない。
愛は、正常な形であるべきだ。
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