自己存在【true】
ガンガンと頭が痛む。
大海原にたった一人で投げ出されて、永遠に助けが来ないまま深海に沈んでいく。膝を抱え込んでガタガタと震えながら、誰の愛情も受け取れないまま死んでいく。
そんな、恐ろしい感覚が心を苛む。
「あの人にどんどん似てくる翔を見て、吐き気がしてしょうがなかった。樹ちゃんも、翔も二人共あの人の顔にそっくりだったわ。だけど、そのことを忘れるくらい樹ちゃんは私の理想だった」
「…理想?」
返ってくるであろう言葉は分かっていたけれど、私は疑問を投げかける。
「聞き分けが良くて、テストはいつも百点。反論することなんて一度もなかった。この子は神様が私に与えてくれた宝なんだ、って思ったわ。この子だったら、私が叶えられなかった夢を叶えてくれるって。
離婚して、あの人が翔のことを引き取ってくれて本当によかった。あの子があのまま樹ちゃんの側にいたんじゃ、悪影響を与えかねなかったもの」
これが母の本質だったのか、と思うとどうしようもなく悲しくなった。
実の息子を平気で手放すような人間に私はずっと育てられてきたんだ、と考えると恐怖に似た悲しみがズンと押し寄せる。
私はこんな人に愛してもらう為に自分を捨ててきたのか。いつも顔色を窺って怯えながら生きてきたのか。
「そんなに翔のことが嫌いですか…。実の息子をよくそこまで蔑ろに出来ますね。結局、母さんにとって僕達は道具でしかなかったんでしょう?」
私がそう言うと、母の唇がわなわなと震えた。
「なんでそんなこと言うのよ!私が間違ってるって言うの…?樹ちゃん、一体どうしちゃったの。もしかして翔に会ったの?それで私のことを悪く言われたのね?」
目頭に涙を溜めながら語気強く怒鳴る母の姿は醜かった。
今すぐに母の元から違う世界へ立ち去りたいという思いが浮かぶ。
「…母さんは間違ってる。あなたにとっての私は一体何なんですか?もし私が成績優秀じゃなくなって、優等生でもなくなって、あなたが誇りに思えなくなったら。…そしたら、私はいらない存在ですか」
勢いを増す雨のせいで外の明度は段々と暗くなっている。
日の入らない冷たい空間には雨が地面に落下する音だけが静かに響く。
「何を言ってるの?樹ちゃんは優秀だから樹ちゃんなんでしょ?優秀じゃなかったら、それはもう意味をなさないじゃない。賢さが、あなたの存在価値なのよ」
大きな雨粒がぴちゃん、とベランダに跳ねて小さな水溜まりを作ったのが見えた。
分かっていた。
母がこう言うであろうことも。母にとっての私は優秀だからこそ愛せる対象なのだということも。優秀でなかったら、いらない存在だと捨てられるだろう、ということも。
けれどいざ言葉にして「賢さが存在価値」だと言われると、多田樹の個が完全に否定されたように感じられた。生きていることを許して貰っていない気がした。
「…母さんなんて、嫌いだ」
私は頬に冷たい涙が伝うのを感じながら、部屋を飛び出した。
母とは全く顔を合わせず、振り返ることもせず。
雨降る世界へと走り出した。
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