disappear【消失】
「―しーちゃん、それ、間違いなく恋だよ」
明瞭な声が俺の意識をこちら側へと引き戻す。
「…はい?」
「だから、しーちゃんは間違いなく多田君に恋してるってこと」
ビシッと箸を突きつけながら千里は言う。
…違うだろ。恋っていうのはもっとキラキラした眩しいものの筈だ。
こんなにしんどくて、重圧感に苛まれた気持ちが恋の訳がない。
「俺はアイツの弱みにつけ込んだだけで、恋愛感情じゃねえよ」
そうだ。愛情を欠乏した哀れな多田に「助けなきゃいけない」と理由をつけた。俺が勝手に作り上げた責務感に従って、多田を母親の呪縛から救い出したいと思った。
「違うってば。しーちゃんは気づこうとしてないだけで、心の奥底で多田君に惹かれてたんだよ。好きだからちょっかいを出したくなるし、気にかかってしょうがない。まるで小学生男子だね」
「…好きってか、アイツを救いたい。アイツの持ってる嘘を全部引きはがしたい。歪んだ愛情から解放させてやりたい。…そういう気持ちはある、けど、」
「…だからね、それが恋なんだって」
呆れ顔を浮かべながら恋だという主張を曲げない彼のことを見ている内に、大体恋って何なんだ?という疑問が沸々とこみ上げてくる。
人を好きになって一緒にいたいと思うこと?
結ばれたい、と望むこと?
「…多田は、男じゃねえか」
すっかり頭から抜け落ちていたけど、大前提として多田は男で…俺も男で。
同性同士の恋愛は今の世の中においては珍しくも何ともないけど、抵抗がないと言ったら嘘になる。
今まで付き合ってきたのも勿論異性しかいないし、それが俺にとっての普通だった。普通であることが世の中では普通だから、そこから脱線することなんて考えもしてこなかった。
「男とか女とか、恋愛に性別は関係ないよ。大体しーちゃんがこれだけ誰かに執着してるってはじめてじゃない?今までは彼女にも淡白だったし」
「…んなことねえだろ」
「いいや、今回は特別だよ。よーく考えてごらん?暇さえあれば多田君のこと考えてるでしょ?」
確かに、確かに考えてるけど、恋愛感情があるから、って訳じゃねえだろ。
「そりゃ、あんな悲痛な顔されたら考えないほうがおかしいだろ…」
そう言うと、千里は眼鏡越しに俺の瞳をじーっと見つめてくる。
「行動が先に伴った、ってだけでお互いにある感情は恋なんじゃないの?…違うの?ねえ、しーちゃん。もし最大限の幸福がある世界に行けるとして、そこにたった一人を連れていけるとしたら、多田君を連れて行きたいと思う?多田君に笑っていてほしい、って思う?」
千里らしくない質問に俺は面食らう。
―俺が望むのはただ一つだ。
多田が自分を偽らずに、温かな愛を受け取れること。願わくばその愛情を与えるのが自分でありたい、ということ。
「…思う」
ポツリ、と呟いてから気がついた。
今、俺…、「愛情を与えるのが自分でありたい」って思ったよな?
ごく当たり前のように「多田のことを愛したい」って。
「多田君が苦しんでたらしーちゃんも苦しいし、多田君が喜んでたらしーちゃんも嬉しいでしょ?」
「…そりゃあ」
千里は先程と同様に箸を俺の顔に突き付けながら、真剣な顔をした。
「もう一度言うよ?それは間違いなく恋です。いい加減自覚してください。誰かを大切にしたいと思ったら、それはもう恋なんだよ」
誰かを大切にしたいと思う。
多田が心から笑って、歪んでいない愛情を享受できる未来があるとしたら。
もしそんな未来があるんだとしたら、俺はそこにいたい。
多田の隣で彼の幸せに目を向けていたい。
「…そうか…。俺、多田のことが好きなのか…」
やっと自覚した本心は、一度認めてしまえばあまりに理にかなった感情だった。
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