Rain【雨降る夜】
傘を持ち忘れたことに気がついたのは、暫く道を走ってからだった。
天空から舞い落ちる大量の雨粒が顔も髪も体も全てびしょびしょに濡らしていく。
時折冷たい水が目に入っては視界をぼやけさせ、いつもは澄み切った見慣れた景色が雨によって水色と灰色のフィルターをかけられているように見えた。
「…はあっ、……多田……っ、」
学祭の時もこんな風に多田を走って探しに行ったんだ、と俺はハッとする。
―普通の愛が欲しい。
そう呟いた多田は、涙を拭いながらギュッと掴んでいた俺のシャツの裾を離した。
それはまるで、これ以上弱さを晒すことも、助けを求めることもしてはいけない、と一線を引いているかのようだった。
多田の心にどこまで踏み込んでいいのか分からない。
嘘で固められた心を打ち破らなければならないことは分かっているのに、俺は多田にどのような言葉を伝えたらいいのか悩みに悩んだ。そして最終的に正しい言葉を見つけられなかった俺は、多田を救うことが出来なかった。
俺は、なんて不甲斐ないのだろう。
理性を失った挙げ句多田のことを傷付けて、彼の苦しみを知ってしまった。その癖していざ多田が抱えている問題に直面すると、足が竦んでどうしたらいいのか分からなくなる。
多田にとって母親との問題を他人に話すことは、相当勇気のいることだった筈だ。それを口に出して伝えてくれたというのに、俺は何もすることが出来なかった。
見慣れた大通りをひたすら走り抜けると、大学の正門に突き当たる。
俺は正門を素通りすると、裏門へ向かう為に鬱蒼と生い茂った木々で沢山の脇道に走り込んだ。
「……っ、はあっ……やばい、……死ぬ……」
生きてきてここまで焦燥感に駆られたことはない、というだからくらいの焦燥感に苛まれていた俺は、ほぼ全力疾走でここまで走ってきていた。肩でゼーハーと息をしながら裏門のすぐ側に辿り着いた時には、全身はびしょ濡れ、体力はボロボロで見るに耐えない状況に陥っていた。
「……多田…っ、」
探す努力をしなくとも多田はすぐに見つかった。
何故ならば、彼は裏門の扉に体をもたげて傘もささずに泣きながら立っていたから。
雨によって額に張り付いた黒髪と、皮膚が透けている白いシャツ。
学祭の時とは比べ物にならないくらい泣きはらしたであろう瞳は、真っ赤に腫れて痛々しかった。
そして、そんな彼の瞳は俺の姿を捉えるなりゆらゆらと揺れた。
「…雨、谷君……」
髪から滴った雫が頬を伝い、雪のように白い首筋に流れ落ちる。
―苦しくて苦しくて堪らない。お願いだから、僕を助けて―
言葉にならない言葉が、多田の瞳を介して俺の心に鋭利に突き刺さる。
はっきりと、そして明確に多田の叫びが聞こえた。もうこれは、間違いなく俺の勝手な想像などではなかった。
「…どうしたらいいか、もう分からなくて…っ、…苦しくて…もう、僕は…、…っん……あ……」
自分でも無意識の内に、俺は多田のことを抱きしめていた。
かけるべき言葉とか、多田を救い出す言葉とか、もしかしたら探せば正確な言葉が見つかるのかもしれないけど、俺にはそんな余裕はなかった。
コイツを抱き締めて、暖かな世界に迎えてやりたい。
俺が今の多田を見て感じたことは、その思いだけだった。
華奢な肩には大粒の雨が次から次へと降り注ぐ。濡れた洋服から伝わってくる多田の鼓動は、大きくドクンドクンと鳴り響いていた。
「…っ……苦しい……悲しい…愛が欲しいんだ……歪んでない愛情が欲しいんだ……ねえ、僕は誰なんだ…?お願い、教えて……!」
「…教えて、」と掠れ声で呟いた彼は、嗚咽を洩らしながら俺の胸に顔を埋めた。
「分からないんだ…見えないんだ…。僕は、愛されたいだけなんだよ……。それだけなのに…っ、もう…、もう何もかも疲れた…。頑張って勉強して、勉強して……自分の感情なんて全部捨ててきたのに…。母さんの期待にずっと答えてきたのに…!…っ、…雨谷くん…僕をめちゃくちゃに壊して……」
俺の濡れたシャツの裾を縋るように掴みながら多田はひたすらに叫んだ。
その姿は今まで押さえ込んできた感情を、余すところなく全て露わにしているかのようだった。
崩壊寸前だった自己が何かのきっかけによって完全に崩壊してしまって、形を保っていられなくなった。パズルのピースがバラバラに崩れ落ちて、ぐちゃぐちゃになってしまった。
「…じゃあ、」
多田の体がピクン、と動いた。
「―じゃあ、俺が愛を捨てるほど与えてやるよ」
降りしきる雨の中、俺はそう静かに呟いた。
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