欲望【hope】




―愛して。

蚊の泣くような小さな声で囁いたつもりだった。押し込めてきた感情を、ほんの少しこちら側に呼び寄せただけだった。

―どこにも行かないし、俺は多田に優しくする。

はっきりと放たれた言葉が透明な雫となって心にささらいだ。
どうしてこの人は、私が捨てた筈の感情を呼び寄せようとするのだろう。
今まで誰にも弱音を吐いたことなどなかったのに、雨谷の瞳にじっと見つめられると固めたものが雨に溶かされて流れていく。

―…なあ、よく聞けよ。アンタは多田樹以外の何者でもねえし、それ以外にはなれねえんだよ。母親に愛されるために大切な本当の自分の感情を捨てて…残った心は空虚な暗闇でしかない。偽物の自分を愛して貰うくらいなら、そんなクソみたいな愛情捨てちまえ。

捨てる勇気がないんだよ。
勇気をくれよ。どうやったら愛情を振り切れるのか、教えてくれよ。
…ねえ、頼むから…!




自分を見つめたって何も見えるものはなくて、真っ暗な影に包まれた心が浮き彫りになるだけだ。
母との思い出を象る雨は私をひたすらに濡らしていく。
ぴちゃぴちゃと、冷たい雫を降らせながら。あんなにも美しかった雨が、今では淀んで見えるようになってしまった。

一体光はどこにある?温かい愛情はどこにある?
自分の存在が意味をきちんと為すような、明確な存在理由が欲しい。私を肯定して欲しい。

結局私はごちゃまぜになった感情の中で、母に愛されることを選んだ。綺麗に繕われた姿のまま、嘘をつき続けることを選んだ。自己を捨てることでしか、だって愛を受け取ることができないのだから。

…でも、違うんだよ。
本当は「こんなの間違ってる。違うよ」と叫びながら綺麗な雨の下で光り輝いていたい。
愛されたいし、愛されたくない。愛されることは苦しみを孕むし、愛されなければ苦しみに支配される。

けれど結局は、歪んだ愛を受け取ることは間違っているのだろう。本当の「僕」を愛して貰うこと。それが正解なんだろう。

雨谷と出会ってからというもの、自分の周りを塗り固めているものがどんどんと壊れていっている気がする。
これまで誰も気が付かなかった私の「嘘」を、彼は最初から分かっていたのだろう。

もしかすると、彼なら私の世界を変えてくれるのではないか?

「…もう分からない、」

夕刻を知らせる音楽が遠くで反響している。

一体ここはどこなのだろう?
私はどうなりたいのだろう?
私は、どうしたらいいのだろう。

自分ではない他人に目を向けてみると、自分が置かれている状況に気がつくものだ。ああ、私は異常な世界に生きているのだと。
キラキラと眩しい雨上がりの空にビー玉を翳してみると、美しい雫が煌めいているんだろうか?

光は案外近くにあるものなのかもしれない。
溢れ出して止まらない感情のなかで、正しい愛を求めるべきなのだろう。

例え自分が消えそうになったとしても、「私は私なんだ」と割り切る勇気を持たなければいけない。
淀んだ雨の世界がもとあった美しい世界に戻ったとして、私はそこで笑っていたい。
泣きながら笑って、「そうだ、これが僕なんだから」と叫びたい。

愛されたいし、愛されたくない。二律背反した歪な感情を持つ自分こそ本当の自分なのだから、自信を持てばいいんだ。
賢くなくていい。優等生でなくてもいい。不完全な僕でもいいんだって、誰かに言って欲しい。
優しくて温かい愛情を貪りたいんだ。

…お願い、普通には愛されない哀れな僕を愛してくれ。



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