tears【涙】




「別に愛されなくてもいいんじゃねえの。母親に愛されなくたって多田は死なないし、世界は何も変わらない。大体、愛ってそんなに安っぽいもんじゃねえだろ」

誰かに愛されるためだけに元あった自分を全て脇道に追いやって、完璧な自分になろうとする。「愛されている」という安心感に浸るためだけに、本当の自分の心さえどこにあるのか分からなくなる。
もうそれは、自分じゃない誰かになってしまっているということ。

「…あなたは、…あなたは…何も分かってない…っ!あの人から否定されることがどれだけ恐ろしいことなのか…自分が否定される感覚がどんなに苦しいものなのか…」

紅潮した頬に真っ赤に充血した瞳。
多田はシルバーフレームの眼鏡を外すと、真っ白なワイシャツの袖口で目元の涙を強く拭った。
眼鏡が外されたことで、多田との間に隔たれていた境界線が一切なくなる。
俺は多田が座っている階段の目の前にしゃがみ込むと、その作り物のような瞳に視線をじっと合わせた。

「…なあ、よく聞けよ。アンタは多田樹以外の何者でもねえし、それ以外にはなれねえんだよ。母親に愛されるために大切な本当の自分の感情を捨てて、残った心は空虚な暗闇でしかない。偽物の自分を愛して貰うくらいなら、そんなクソみたいな愛情捨てちまえ」

愛情は一方通行では成立しない感情だ。どちらかが一方的に愛を振りかざしても、相手にその「愛」が伝わらなければ意味がない。
それに、綺麗に取り繕った嘘偽りに溢れた自分しか愛して貰うことができないのならば、そんなもの無意味だ。無価値だ。本当の自分を愛して貰えないのならば、こちらから無理に愛を求める必要もない。

「…捨てられる訳ないじゃないか…。いらない子だって言われたら、…僕は、」

多田はそう微かに呟くと、ポツポツと涙を流しながら頭を垂れた。

俺は彼が今述べた「僕」という言葉に神経を奪われたと共に、押し込めていた多田の本当の姿がまだ消失してはいないことを悟った。

消えかかっているけど、まだ完全に無くなってはいない。
多田は歪な愛を求めすぎてきたせいで、正常な愛の形がどんなものなのか皆目分からなくなっているのだろう。
今ならあの無数に張り巡らされていた自傷の跡の理由に納得出来る。一瞬あれを目にしてしまったときは、俺の目がおかしくなってしまったのかと思った。

けど、違かった。
愛して貰いたい欲求と、自分が自分でなくなっていく恐ろしい感覚。
作り上げた自分でないと捨てられるから、余計なものは全て排除した。体中に蔓延ったごちゃごちゃの感情が溢れそうになった時にこいつは、自傷という行為に走ったのだろう。
彼にとっては恐怖の捌け口が、それしかなかったのだ。自分を繋ぎとめておくためには、ひたすらに自己を傷つけるしかなかった。

「…僕は、…」

多田がしゃがみ込んでいる俺の服の裾を小さく掴んだ。
それは、愛に飢えた赤子が必死に泣き叫んでいるかのようだった。

「…僕は、普通の愛が欲しい」

多田は絞り出すように言葉を紡ぐと、掴んだ箇所を更に強くギュッと握った。



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