tears【涙】




触れたら壊れてしまう。
こいつの心に土足で足を踏み入れたら、一体どうなってしまうんだ…?

右手を差し出そうとした刹那、頭に不安と恐怖の観念がぐるぐると渦巻いた。
触れてはいけない。けれど、触れなければ多田は永遠に同じ場所から動くことができない。

…駄目だ、そんなの。
例えどんな結果に陥ろうとも、今ここで多田の心に踏み入れなけばいけない。結果的にその行為が彼の基盤を打ち壊すことになったとしても、それでも。

「…どこにも行かねえし、俺は多田に優しくする。」

心に決めた決意をはっきりとした口調で告げると、多田の瞳からは更に数えきれない程の涙が零れだした。

「……私は、」

ポツン、とアスファルトに涙の染みが広がった。

「…春乃のことが、好きだったんです…。彼は、高校時代の生徒会の仲間でした。私は春乃を好きになって、好きで好きで堪らなくて、っ、…人のことを好きになる行為が、こんなにも苦しいだなんて思いませんでした…」

―好きだった。
多田の口から発せされた言葉が過去形だった時に、俺は全てを悟った。

そうか。そういうことか。
多田は高校時代に「はるの」に恋をして、でも、上手くいかなかったのだろう。
だから雨降るあの日に多田を見た時も、さっきも、彼が「はるの」に向ける視線は悲しそうなものだったのか。

「でも、でも…っ、私が春乃に求めていたのは、ある種の救いだったのかもしれません…。私はずっと、独りよがりの救済を求めていたんです…」

華奢な両手で美しい顔を覆い隠しながら、彼は言った。

「救済?」

「愛されることと同時に、捨てた私を見つけてほしかった。『春乃が好き』だというのは口実で、私は救済者を求めていたのかもしれません…」

―救済…。
多田は人を好きになることと同時に、自分が救われることを求めていたってことか?
自分一人では最早どうすることもできないから、自分で自分を救うことは出来ないから、自分ではない誰かに助けを求めていたのか?

本能的に感じた「多田は自分を殺して生きている」という思いも、心に刺さった鋭利な棘も、褐色の瞳孔に宿された悲しみも、全て気のせいではなかったのだ、ということが即座に理解出来た。
この儚げな百合の花は、「助けて」と叫んでいたのか。

「時々、自分が誰なのか分からなくなるんです。勉強が完璧じゃないと、皆に好かれる優等生じゃないと、…見放される…。怖い、怖いんだ…。愛されないと、存在している意味がないような気がして…」

多田が一つ一つの言葉を発する度にイチョウの木からはヒラヒラと朱色に染まった紅葉が舞い、日の当たらない冷え切った地面にそれらが落ちてゆく。

「優等生でいなきゃいけない決まりがどこにある?誰かが決めたのか?多田はそうじゃなきゃいけないって」

俺は思ったままのことを言葉にして話す。
多田は顔を覆い隠していた両手をゆっくりと離すと、唇をわなわなと震わせた。

「…っ、…だって、そうしないと母さんに愛されないじゃないか!」

そのあまりに大きな声に、俺の心臓はビクンと高鳴る。 

ああ、そうなのか。
今こいつの口から吐き出されているのが多田の本心で、ずっとしまい込んできた本当の姿に違いない。
こいつはずっとずっと、「母親に愛される為」だけに自分を捨ててきたのだろう。



[39]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -