名前【who am I?】





「ああ…どうも。俺は雨谷雫月っす。え、入部するってマジですか」

―雨谷、雫月…
この人があの小説を書いた人なのか…?

想像と現実の激しいギャップに、声が詰まりそうになった。
パーマがかかったオレンジブラウンの髪色に、右耳の軟骨には雨色のピアスが見え隠れしていて、その姿はどこからどう見てもファッション誌に登場しそうな風貌だったのだ。
私が文芸部に入部してからというもの、彼が私に対して好印象を抱いていないのは確実だった。私より十センチは高い身長から向けられる威圧的な視線が、言葉にならない目の言葉を伝えてくる。

もしかすると、彼には私の捨てた感情が見えているじゃないか?と思った。
私には物心ついた頃から泣いた記憶がなく、激しい感情を外部に露わにしたという記憶も存在しない。不思議なことにふと気がついた時には、泣こうと思っても、泣けなくなっていた。
自分に纏わりつく感情が誰の所有物であるのかが分からない。

―あんたさあ、生きてて楽しいの?いつもニコニコ優等生ずらして、勉強して、皆に慕われて、それはお前の本心なのか?胸糞わりいんだよ、見てると。
皆の理想を演じてるだけじゃねえの?ずっと優等生、会長って言われてきたせいで多田樹っていう個人の人間を忘れて、それで―

…いやだ…っ…
いやなんだ…。怖いんだ…、いやなんだよ…助けて…

…助けて、……


愛が欲しいんだ。愛を貪りたいんだ。
僕に愛情を与えて欲しいんだ…。
例え成績が良くなくとも、皆に慕われなくても、繕わない僕を愛してくれ。

夏合宿のあの日、体内に蔓延った熱が今にも爆発してしまいそうになった。酔った彼に突然あんなことをされて、体が無意識にガタガタ震えた。
知らない誰かに全てを浸食されていく感覚は、地面に雨が滴る情景と似通っている。小さなキスをいくつもされた時、水色の雫が皮膚に広がるような感覚に陥った。

天空から急落下してきた冷たい雨粒が私の隠された叫びを溶かしていく。

私は一体どこにいる?私は誰なんだ?
「僕」は本当は誰なんだ…?

ヒリヒリと痛む二の腕にそっと手をやると、ズキン、という激痛が体中に走った。
自分を繋ぎ止めたくなる度に、衝動的にカッターで二の腕に傷をつけた。手首に傷をつけなかったのは、人目に触れる場所を避けたかったからだ。
もし他人にこのことを悟られたら、きっと大変なことになるだろう。だから、左腕の二の腕ばかりにカッターを滑らせた。
消失しかけて二度と出会えなくなりそうな「僕」を心の中に留めておく為に。僕はちゃんとここにいるんだということを認識するために。
抑えきれない恐怖と失意が、私を飲み込んで絶望の奈落へと引っ張っていこうとする。
まさか、誰も私がこんなことをしているだなんて思いもしないだろう。

完璧な優等生。いつでも敬語で隙のない人間が自傷行為をしているなんて、考えもしない筈だ。 

「多田樹なんて奴はいないんだ。お前はからっぽの操り人形だ」

どこからか聞こえる声が私にそう囁く。

どしゃぶりの雨が心の声を掻き消してくれればいい。
頭の中では母が私を呼ぶ声と、雨谷が私を呼ぶ声が二重に重なり合ってぐちゃぐちゃの音声になった。


…樹ちゃん……樹ちゃん、

……樹……樹…

「…おい、『樹』…!」

くっきりと色濃い彼の声が、最後に残って脳裏で反響する。
雨音が煩い。煩くて堪らない。

「…汚い…何もかも…」

私はビー玉から目を離すと、再び窓辺にそれを置いた。



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