名前【who am I?】





「樹ちゃんは勿論法学部に進むわよね?」

暖かな陽だまりが差し込むリビングで、母が有無を言わせぬ口調で言った。
続けて父が「…強要はよくないだろう」とポツリと言葉を漏らす。

母と父が離婚したのは私が四歳の時。
だから、私の記憶には血の繋がった肉親である筈の父の記憶が一切と言っていいほどない。
母が新しい父と再婚をしたのは、確か私が八歳になって直ぐの時だっただろうか。いきなり現れた知らない人間に、今日から私が君の父親だよ、と言われた所で、すんなりと心を許せる訳がなかった。

何故母さんは父さんをそこまで忌み嫌うんだ?一度は愛し合って体を預け合った仲じゃないのか…?
私の父親は、この人じゃない。ちゃんと別に存在しているのに、どうして会わせてくれない?家族なのに、親子なのに、顔すら分からないなんておかしいじゃないか…!

「…はい、弁護士になるのが夢でしたから」

よくここまで嘘をつけるものだ、と自分自身に驚嘆しながら言葉を紡ぐ。

母の再婚相手はその界隈で知らない人はいない、という程の有名な弁護士だった。母には大学受験に失敗して弁護士になるという夢を諦めた、という過去があるから、羨望と尊敬の念を父に対して抱いていたのだろう。
そして、叶えられなかった夢が私に託されたのもいわば当たり前のことだった、と言える。

大学へは首席で合格した。
勉強をすることは私にとって完全に義務だった。
常に「勉強しなければ」という責務感が体中に付き纏っていて、休憩しようと思っても恐怖観念に襲われてそれができない。

―やらなきゃ…勉強しなきゃ…。怖い…怖い怖い怖い……。

手を休めた後に生じる代償があまりに恐ろしくて吐き気がした。

入学してからも私は良い成績をキープする為に、必死に勉強した。
普通の大学生ならば、講義をサボってみたり代返を頼んでみたり、同級生や先輩と飲み会をしたりするのだろうけど、私には無縁のものだとしか思えなかった。
そんなもの、手の届かない真っ白な世界でしかない。

―ああ、それなのに。
身を置いている世界が一瞬にして変化するような出来事が、どうして稀に起こるのだろう?
恋をしたときに感じた胸の高鳴りが、二年越しに舞い戻ってきたような。
ピンク色だった高揚感がふわりふわりと徐々に水色に変化して、眼下でその二色が滲みながら広大な染みを作っていった。そして桜色の小さな染みが雨色の小さな染みに侵食されて、瞬く間に姿を消した。
後に残ったのは冷たい寒色のみ。
いつしか嫌いになってしまった雨がザーザーと私を濡らしていく。

―雨谷雫月。
彼の名前を初めて耳にした時、地面がグラリ、と揺れて心臓が飛び出す程に高鳴った。

…雨だ。雨の雫だ。ポツポツと地面に黒い染みを形作っていく雨粒だ…。
耳にした、というより目にした、と言った方が正しいか。
昨年の学園祭でたまたま手に取った文芸誌。本当に、何の気なしに読んでみよう、と思っただけだった。完全なる気まぐれだった。

文章構成が群を抜いて上手だったのは、レンゲという人が執筆した小説だった。
言葉選びや描写の仕方がこの人は文章を書くために生まれてきたという水準で、プロの作家にも劣らないのではないだろうか?と感じたくらいだ。
けれど、私の脳裏にこびりついて離れなかったのは雨谷雫月が書いた小説だった。

不完全の中にある美しさ。
悲しみの中に含まれた喜び。
…切なくて、儚い。

一体どんな人が書いているんだろう?という疑問が湧き上がって消えなくなった。
サークルに所属するつもりは皆目なかったのに、どうしてもどうしても、零れ始めてしまった心のピースを元の場所にはめることが不可能になって。
激しい自我を持ち始めた心を元あった暗闇に押し沈めることが出来なくなった。



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