名前【who am I?】





私はひたすらに勉強した。
そこには自分の意志とか、感情とか、個人的なものは何一つとして存在していなかった。
大好きな母が優しい姿のままでいてくれるように、私の価値が母にとってなくならないように、くだらない「僕」の感情なんて捨てた。

元々の一人称だった「僕」は中学に入学し、生徒会に入った頃から消え失せた。完璧を目指して、馬鹿みたいに勉強して、人当たりが良い風に装って。
毎日毎日そうしているうちに、本当の自分がどんな形をしていたのか分からなくなった。
そして、いつしか捨てた感情がどんなものであったのか、どんな色をしていたのか、さっぱり思い出せなくなった。

多田樹は個人ではなく、皆からイメージされた一つの像でしかなかった。
だから皆が私のことを真面目とか優等生と言ったとしても、その言葉は私には届かない。

「多田君」「樹君」

生徒会長になる前は名前で呼ばれていたのに、会長になった途端自分の名前さえ呼ばれることがなくなった。


生徒会に入ったのは、母の薦めだった。
中高一貫の進学校に入学して以来、常に首席を取り続けていた私に、母は「生徒会に入ったらいいんじゃないかしら?」と言ったのだ。

成績優秀。それに生徒会の活動も加われば、将来が確定したも同然だ、と思ったのだろう。
人前に出ることは全く好きではなかった。
成長するにつれて人見知りはましにはなっていたけれど、それは他人と一定の距離を置いて関わっていた故のことだ。敬語で話すと、自分が自分でなくなったかのような感覚に襲われた。不思議と、他人と笑顔で接することが可能になった。
だから、気を抜くとすぐに心が苦しくなってしまう。

でも、私は母に逆らうことが出来なかった。母に望まれたことをそのまま遂行するロボットにでもなってしまったみたいに、発せられた言葉に抗うことが出来ない。

愛が欲しい。肯定して欲しい。
お願い、「僕」を見て。私じゃなくて、僕を見て。

そんな鬱蒼とした気持ちを胸の中に抱きながら、幾年もの年月が流れた。
自分が誰なのか分からない思いを常に抱きながら私は高校三年になり、中高と続けて生徒会長の役職に就いていた。

愛染の念が体中を支配して離してくれない。
もしいらない子だと言われたら、私はきっと壊れて確実に今のままではいられなくなるだろう。今の自分を作り上げたのは言うまでもなく私なのだから、自業自得だ。勝手に創造するのも、勝手に崩壊するのも、自分次第なのだから。

―そんな、高校三年のこと。
突如として目の前に鮮やかな桜の花びらがひらひら、と舞い降りた。
比喩などではなく、本当にピンク色の花びらが視界中を覆って私の捉える世界を刹那にして変えた。

…恋、だった。
この世のものとは到底思えない程綺麗な人間に、抗えない万有引力で引っ張られるかのように恋をした。
宇宙を掻き集めたかのような藍色の瞳に、漆黒の艶やかな髪を持ち合わせた春乃は、泣きそうな顔をしながら私に微笑んだ。
その瞬間、今まで捨ててきた感情が再びピースを繋ぎ合わせて、心の中で組み立てられていく感覚に襲われた。そして、藍色の瞳は記憶にこびり付いて私を縛る雨とリンクして、幻想的な青を奏でた。
ぼろぼろと零れて拾い集めることが不可能になった私個人の感情が彼を目の前にすると一瞬のうちに舞い戻ってくる。舞い戻ってきてしまう。

それは、私じゃない誰かが心の内部で目覚める感覚だった。
捨てて戻ってこなくなった筈の自我を持った自分が激しい感情を吐露する感覚だった。
恋することがこんなにも苦しいなんて、知らなかった。知りたくなかった。
このまま恋せずにいれば、完璧で優等生な、母の大好きな私のままでいることを、疑問に思わなかったかもしれない。
人に激しく惹かれる、という感覚に陥ってから、自分の置かれている状況に疑問を感じるようになった。
自由になりたい、という思いを抱いてしまうようになった。

母の呪縛から逃れ、自分の思うがままに生きる。それは、一体どんな色をした世界なんだろう?
責務感のない世界。焦燥感に駆られずにいることができる生活。

「…はるの」

恋した相手の名前を小さく震える声で呼んでみる。

はるの……はるの、春乃…。
もう告白を断られてから二年も経っているのに、未だに忘れることが出来ない名前。
本当に、好きだったんだ。
あの藍色の瞳に私の瞳が写り込むことが出来たなら、どんなに幸せだっただろう。

「…好きだったんだ…。どうしようもなくなるくらい、大好きだったんだよ…」

もし彼と未来を歩むことができたなら、私はどうなっていただろう?
いいや。叶わなかった希望に夢見ること程滑稽なものはない。
彼の瞳には私ではない人間が映っていて、私がその人間に成り代わることは不可能なんだ。



[18]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -