名前【who am I?】





……樹。  

……樹、いつき……

………樹ちゃん…。


私を名を呼ぶ母の声が、雨のザーザー降る水浸しの世界で反響する。
幼い頃からずっと聞き続けてきた母の声は、とても優しい筈なのにナイフのように鋭利に尖っていて、私の胸を抉る。

ギュッと閉じられていた瞳を恐る恐る開くと、そこにはいつもと何一つ変わらない日常があった。
冷たい窓には降りしきる雨粒がピチャピチャと流れている。ゆっくりと流れ落ちる雨粒と、素早く流れ落ちる雨粒が一緒になって、一つの水滴になったのが見えた。

「…雨…」

書物だらけの本棚をぼんやりと見つめながら、私は小さな声で呟く。

…雨は、嫌いだ。
記憶を辿ることの出来る最大の過去まで遡ると、私は雨が大好きだったように思う。

あれは、一体何才の記憶なのだろう?
絵本を大切に抱える自分と、私に話しかける私そっくりのあの子は…。
物心ついた頃から見続けてきた夢にはいつも、あの子が出てくる。名前すら分からない、私と同じ顔をした小さな少年。いや、少年と言うには幼すぎるような気もするけども。

きっと、私が作り出した虚像の世界なのだろう。弱虫で内気な自分を変えたいと思った挙げ句、心の中で正反対の自分を作り出してしまった。ある種二重人格のようなものを、勝手に創造してしまったのだ。そうに違いない。

…だって、今ここにはあの子はいないんだから。

真面目に考えてみると自分そっくりの少年がいるわけないじゃないか、と我に返る。双子でもあるまいし、そんなこと有り得ない。幼少期の自分の記憶の曖昧さにクスリ、と笑ってしまうと共に、少しだけ寂しい思いが胸に募る。

―ああ、もし兄弟がいれば、母との関係が違っていたかもしれないな、と。
…いや、どうだろうか。
いずれにせよ、こうなる運命だったのだろうか。
人生は予め決められていて、そこから逸脱することはできないのだろう。
だから、母の希望に応えなければならない責務感に常に駆られている私も、私に過剰な期待を寄せる母も、決められた世界で生じることになっていた一事象に過ぎないのだ。
「…ビー玉、…懐かしいな…」

窓辺にコロン、と転がっていた水色のビー玉をそっと指で摘まむ。
雨の湿った外気が微かに部屋に流れ込んできて、それは手にふわっと吹き付けた。
夏と雨が混ざり合った香りは、ビー玉を母に買って貰ったあの日の記憶とリンクして私の脳裏に染み付く。

震える人差し指と親指で強くビー玉を摘まむと、それを窓越しの景色に掲げた。
そこにゆっくりと瞳を近づけると、青がかった外の世界がビー玉に凝縮されているのが見えた。

―綺麗な筈の世界が、淀んだ世界に見えるのは何故だろう?
買っても貰ってすぐの頃は、ビー玉越しに見える世界がキラキラしていて、眩しくて、本当に綺麗で、私はそれが大好きだった。暇さえあればビー玉を目に近付けて外ばかり見つめていたのをよく覚えている。

絵本を読んで、ビー玉を見つめて、母と話して。
私はその三つが大好きだった。
内気で人見知りの激しかった私には母の存在が全てで、母に受容されること、愛されることが何より大切だった。

―絵本ばっかり読んでてつまらない

幼い心にグサリと刺さった言葉の棘は皆が思うよりもずっと深い傷になって、消えることはなくて。

―つまらなくてごめんね…話さなくてごめんね。

そう思ったけれど、他人と関わることが怖くて堪らなかった。絵本の中で生きていけるなら、どんなにいいだろう?と幾度となく思った。
だから、「樹ちゃんはつまらなくなんてないわ」という母の言葉が嬉しくて仕方なかったんだ。自分の存在は無価値ではない、ちゃんと価値を孕んでいるんだ、ということが分かったから。

私にとって、無価値ほどおぞましいものはない。
誰かに求めて貰うこと、存在の価値を認めてもらうこと。それがなければあまりの恐ろしさに息すら出来なくなる。
ここまで自己存在の価値を思索するようになったのも、母によるものなのかもしれない。
母に愛される為に必要だったのは、自分を捨てることだったから。

…だから、捨てた。邪魔なものは遍く排除して、個人の感情は外に追いやった。
完璧な多田樹になるために、母に肯定してもらえるように。

そうやって、今の私が形作られている。



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