事実の日記、満月の宴

事実の日記、満月の宴 | ナノ


「私と秋は孤児なんです。もちろんこのことは知りませんよね。多分秋は自分が不幸だという一面を人には見せまいとしていたと思うので」


「…秋が、孤児?」


「はい。私が六歳、秋が三歳の時に母は私達を残して死にました。…過労死、でした。
多分、私が思うよりずっと世間は母に冷たかったんだと思います。まあ、もう顔も思い出せないんですけどね。
私達は孤児院に預けられて、暫くの間はそこで過ごしていました。仲のいい子もいたし、それほど苦しい生活ではなかったですよ?
…ただ時々、夢の中で魘された秋が泣きじゃくりながら言うんです。『お母さんはどこ?なんで帰って来ないの?』って」



思いもしなかった秋の過去に、目の前が真っ暗になった。
そんなこと、知らない。何も知らない。
聞いてない…何も、言ってなかったじゃないか…
彼の周りに影が感じられたことなんて、たったの一度もなかった。



「一年ほどが経って、里親が見つかって。私と秋はその両親と一緒に暮らすことになって。凄く、優しい人たちでした。
秋が魘されて泣きじゃくることもなくなったし、これで幸せに暮らしていけるって思ったんです。
…けど、違っていました。秋が死ぬまで私はそのことにずっと気が付かなかった。十年も見ていたはずなのに、弟なのに…」


「違ってた、って…」


「…秋は…、ずっと父から暴力を振るわれていたんです。肉体的なものと、精神的なもの、その両方を。
その事実に気が付いたときには秋は自分で自分の命を絶っていて…何もかもが遅かった。
確かに父は気の食わないことがあると感情をコントロールできないような、そんな一面がありました。
でも、基本的には温厚で、優しくて、理想の父親だったんです。
今考えると、秋があんな見た目にしていたのも、人前に立ちたがった理由も、分かるんです。ああ、きっと秋は自分の存在を消したくなかったんだろうなって」


胸が張り裂ける程苦しくなった。
目の前が霞んで、視界に入る景色が全て輪郭を欠いていく。


知らないよ、そんなこと。
なあ、秋…。それだけ苦しんでいたのに、どうして何も言ってくれなかったんだよ。
どうしてあんなに笑ってたんだよ?
俺には苦しいことなんて何もないみたいに、キラキラ輝いてさ。


「…これ、秋が書いていた日記です。机の奥底にしまいこんであったのを見つけて…。
この日記の中の秋は私の知らない秋でした。
私、私…っ、知らなかった…。明るくて眩しい存在が秋だって信じて疑わなかった…」


彼女がバッグから取り出したのは無地のリングノートだった。
茶色い表紙には何も書かれていない。
その無機質さが、秋の真実を表しているように感じた。


「この日記、春乃くんに持っていてほしいんです。きっと…いいえ、絶対、秋もそれを望んでいます。
秋にとって春乃くんがどれだけ大切な存在だったのか…。読めば分かると思います」


「…お、俺…、秋が苦しんでることに何も気が付けなかった…。
それどころか秋を避けたことだってありました。俺のせい、だ」


「違いますよ」と優しい口調で言葉を投げかけながら、彼女は俺にノートを手渡した。
ヒヤリと冷たいノートは、秋の人生を全て含んでいるようにずっしりと重たく感じられた。


「秋は自分が不幸になることが怖かった。不幸だと認識すれば、全部が壊れてしまう。だから、何が何でも助けを求めなかった。
その幸せが見せかけだけの幸せだったとしても、身を置いていたかったんです。
でも、多分、…プチンと糸が切れてしまったんだと思います。
苦しくて、苦しくて、我慢できなくなった。心が壊れてしまったから、どうしても生きていることに耐えられなくなって…」


ポツリ、と茶色い背表紙に涙が落ちた。
涙の雫に染まったノートからは秋の叫びが、秋の苦しみが、これでもかという程に伝わってくる。



「…ごめん、秋……」



謝ることしか出来ないちっぽけで不甲斐ない自分を消したくなった。
俺が「ごめんね」と何度言った所で、秋が報われる訳じゃない。


時間は戻したくとも戻せない。
自分の意志とは関係なく前へ前へと進んでいく。
秋がもがき苦しんだこの不条理で理不尽な世界は、まるで何もなかったかのように時を刻む。
それが、世の理だと言わんばかりに。


「ねえ、春乃くん。お願い…、春乃くんは春乃くんの道を歩んでいって。秋に縛られないで。 
秋はあなたを憎んでなんかない。あなたと過ごした日々は秋にとって、一番幸せな時だったんです」


「…でも」


彼女は俺の言葉を遮って「春乃くんが自分自身を偽ることを、秋は望んでいないはずです…。そうでしょう?」と泣き笑いをしながら言った。


秋そっくりの目元がくしゃっと歪められる。
汚れのない透き通った瞳孔が、ゆらゆらと揺れた。


「秋と出会ってくれてありがとう。
これからは、自分の為に生きてください。秋の存在が段々ぼやけて思い出せなくなったとしても、心の中の思い出が全て消える訳じゃありません」 


彼女の瞳からたった一筋の涙の雫が伝った。


「…だって秋は、確かに存在していたんですから」



[68]





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -