日常の夢、泡沫の悪夢
昨日のことが嘘みたいに相変わらずのみんな。武市さんがからかって、以蔵が便乗して、慎ちゃんが乗っかって。
庭先で騒いでるのを見るとまるで昨日のことが夢だったみたいに思えてくる。
…夢ではないんだけど。
すごく怖くて、初めて死を身近に感じた。大切なものを失いそうになる恐怖を知った。
もう二度とあんな思いはしたくない。
けれどそれでもそばにいたい。
大切なあの人のそばに。
「紘〜、疲れたぜよ〜」
「そんな体で無理するからですよ、もう。お布団に戻りましょう?」
へろへろと縁側に戻ってきた龍馬さんに手を差し延べて、肩を貸して縁側に上がらせる。
ぐらっと傾く龍馬さんの体を支えたら、頬をふわふわの髪が擽った。
「え、」
りょ、うま、さん?
痛む腕がぎこちなく背中に回されて、抱きしめられてるのだと感じた。
「龍馬さん」
「さっき、邪魔されたからのう」
ニシシと頬を赤くして龍馬さんが笑う。
「だめです龍馬さん、私、その…昨日お風呂入ってないし…」
「ワシじゃって入っとらんぜよ」
「そっそれに昨日いっぱい走ったから汗かいてて…その…」
「紘がワシの為に走ってくれてかいた汗を、嫌がるわけないじゃろ?」
「〜っ!龍馬さんっ、手っ痛いんじゃないんですかっ?」
「おう、痛くて痛くて大変じゃー」
「だったら」
「じゃから、」
「?」
紘が腕を回してくれんかのう?
悪戯っ子みたいな顔して私の顔を覗き込む。さっきも言われたけど、恥ずかしいっていってるのにっ!
「むっ無理ですっ」
「早起き勝負、わしが勝ったのにのう…」
「うっ」
途端にしょんぼりとして龍馬さんが言う。ずるい、龍馬さんの方がずっと大人なのに。
「約束破りの、嘘つきにはならんよね?」
ほんとうに、ずるい。
恐る恐る腕を背中に回す。ぎこちなく抱きしめれば、頭の上から嬉しそうな声が聞こえてきた。
「嬉しいのう、紘から抱きしめてくれるなんてのう」
「龍馬さんが言ったからじゃないですか」
ちょっといじけた声で私が言えば、龍馬さんがこつんとおでこを合わせてくる。
「…嫌なんか?」
「嫌じゃないですけど、恥ずかしいんですっ」
「…紘、今まっこと可愛い顔しとるぜよ」
「!」
「もっと可愛くなっちゅうが」
「もっもう龍馬さん!」
「いかん、我慢…出来ん」
「えっ」
おでこだけじゃなく、鼻先も触れる。
焦点が合わないくらい近くにある龍馬さんが目をつぶったのがわかって、私は慌てた。
き、キスされる!?
「きゃ…!」
「おっ」
身じろいだ途端バランスが崩れて靴下が畳を滑る。後ろに倒れそうになった私を支えようとする龍馬さんに思わず叫んだ。
「龍馬さんっ手っだめっ」
反射的に手を引っ込めたのにほっとしたのもつかの間、龍馬さんも一緒に倒れかけていることに気付いて私はもう一度叫んだ。
「きゃーっ龍馬さんっ手ついちゃだめー!」
どたんっと音を立てて畳の上に倒れ込む。
「いた、たた…」
「紘大丈夫か?怪我しちょらんか?」
「大丈夫です…龍馬さんは、手…」
「手は大丈夫じゃが…その…」
「どっか痛めました!?」
はっとして首だけ起こすと、
「いや、顔の位置がのう…」
龍馬さんが私の胸に顔を埋めていた。
「っっ!きゃーっ!」
「す、すまん!でも手が使えん!起きれん!」
「せっせめて顔っ顔上げてくださいっ」
自力で起きれない龍馬さんと、重たくて起こすことの出来ない私がじたばたと畳の上でもがく。
「うるさいぞ、何事だ小娘」
パシンと襖が開いて不遜な顔をした大久保さんが立っていた。
「お、おくぼさん…」
「大久保さん!助けてくれんかっ起こしてほしいぜよっ」
「…ふむ、しばらくそのままでもいいのではないか」
「えっちょっ大久保さん!?」
「安心しろ、すぐに助けが来る」
「え…」
バタバタバタと廊下を走る音が聞こえてきて、
「どうした紘さん!」
武市さんを先頭に慎ちゃんと以蔵が駆け込んできた。
「あ…」
「たっ武市っ助けてくれっ」
「ー龍馬っお前は何してるんだっ!」
ずんずん部屋に入ってきた武市さんが龍馬さんを引っ張り起こして、慎ちゃんが私を助け起こしてくれた。
「ごっ誤解じゃ武市!ワシは何もしとらん!」
「何もしなくてあんな体勢になるかっ」
「龍馬…最低だぞ」
「以蔵っおんしまで何を言うんじゃ!」
「龍馬さん…見損なったっス…」
「中岡!違うんじゃ転んだんじゃっ」
「ふっ、しっかり怒られるといいぞ坂本くん」
「なんでじゃ!ワシ何もしとらんのに!」
「薩摩藩邸でいかがわしいことをされては困るからな」
「いかっ…」
「おい小娘、昼餉の用意が出来た。運ぶのを手伝え」
「あ、はいっ」
「紘!今はいかんとくれ!」
「龍馬さんごめんなさいっ」
「待つんじゃ紘!」
廊下に出る私の後ろから龍馬さんの声が聞こえる。
昨日からいっぱいドキドキさせられて沢山困らせられたから少しくらい意地悪してもいいよね?なんて思いながら私は大久保さんの背中を追い掛けた。
日常の夢、泡沫の悪夢
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