牙を隠した狼



「今帰ったぞ」

バタン、と戸の閉まる音を聞き付けてさっきまで大人しく本を読んでいたりした子供達が一斉に玄関へと駆け出す。我先にと行くせいで本はそこら中に放られてくしゃくしゃになっていた。
私はそれを見てくすりと笑いながらきちんと閉じ直し、玄関へと向かった。

「お帰りなさい、利通さん」

「ああ、ただいま紘」

ふっといつものように口元だけを緩めて笑う利通さんに私は笑顔を返す。
その足元には子供達が群がっていた。

「ぼくがっおとうさまのくつをぬがすんだっ」

利武がうんうんと利通さんの靴を引っ張るけれど、足を上げてもいない利通さんの靴を脱がせられるはずもなく、案の定後ろに転がる。これは利通さんが帰ってくると毎度行われる光景だ。
利通さんがそんな利武の姿を見たいが為に、わざと足を上げてやらないことも私は知っている。

「はっはっは、利武お前はまだ後ろに転げてしまうのか」

至極楽しそうに利通さんは笑い利武の頭を撫でる。

「ほら、足を上げてやるからちゃんと脱がせるんだぞ」

「はいっ」

利武はにこにこと笑い、利通さんの靴を脱がす。漸く廊下に上がれた利通さんに今度は他の子供達が我先にと話しかけた。

「お父様!今朝のパイプは僕が磨きました!」

「今晩のパイプは僕が!ちゃんと用意してありますっ」

その後ろの方でもじもじとする影が一つ。
私はその子に近付いてぽんと肩を叩いた。

「どうしたの?芳子」

「あ…おかあさま」

「お父様のところ、行かないの?」

「おにいさまたちが…」

芳子は唯一の女の子で、兄達の間に割って入れないのだろう。途端にしゅんとする芳子に気付いた利通さんと目が合う。

「芳子、どうした」

「あ…」

「ほら芳子」

戸惑う芳子の背中を少し押してやると意を決したように利通さんを見上げた。

「おとうさま…おかえりなさい」

利通さんは元々かなりの子煩悩だったが芳子のこととなると輪をかけて猫可愛がりだった。
控えめに、でもにこっと笑って言った芳子にくしゃっとした笑顔を向けて抱き上げる。

「ああ、ただいま。芳子、よく言えたな。偉いぞ」

大好きな父に褒められて芳子も嬉しいのだろう。抱き上げられてにこにことしている。
そんな利通さんの周りには自分も自分もとせがむ子供達。
これじゃあ玄関先から一歩も中へ進めない。

「ほらみんな、今日はお父様のお食事の用意を手伝ってくれるんじゃなかったのかしら?」

その言葉に子供達が一斉にこっちを見た。

「お父様のご飯をつぐのは誰?」

「はい!僕です!」

「お漬物を出すのは?」

「僕がっ」

「お茶の準備は?」

「僕がやりますっ」

「じゃあほら、早く用意してお父様とお食事にしましょう?」

そういうとはーい!と元気に声を上げて子供達はリビングにかけている。
芳子も利通さんの腕から降り、箸を並べる為に廊下をぱたぱたと駆けた。

「紘」

いつの間にか後ろに来ていた利通さんが私の名前を呼ぶ。
振り返ればタイを緩めて、ポマードで固めていた髪をくしゃくしゃっと崩していた。
この瞬間、子煩悩な父親の姿から私の好きになった利通さんになる瞬間がすごく好きだった。
子供達は可愛いし、子供達を可愛がる利通さんも好きだけれど、私だけの利通さんになるこの瞬間がすごく貴重ですごく大切だったのだ。

「おかえりなさい、利通さん」

もう一度言って鞄を受け取る。相変わらず沢山の書類の入った鞄はずっしりとした重みがあった。
落とさないようにしっかり抱えようとしていると利通さんの指先が顎にかかる。
ごく自然に顔を上げさせられ、流れるように唇を奪われた。

「ん…」

パイプの苦い匂いが鼻をつく。ねっとりと味わうようなキスに何も考えられなくなっていく。
子供達に見られていたらどうしよう、そう思ったけれどこの唇を拒否する気は最早起こらなかった。

「っ…は」

漸く唇を解放されて目を開けると、私の後ろの壁に肘を曲げて片腕をついていた利通さんがいつものように口の端だけを上げてくっと笑う。

「そう誘うような表情をするな、…食事より先にお前が欲しくなるだろう」

言いながら顎にかかっていた指がつつ…と首筋をじれったく滑る。
誘うような顔をしているのはむしろ利通さんなのに。
私に触れるじれったい指も、見つめてくる熱の篭った瞳も、ライトを背にして髪が少し目に掛かった色っぽいその状態も、全部が全部私を誘惑してくる。
そっと唇がおでこに触れて、すぐに離れる。体を離す寸前に耳元でこう囁かれた。

「今夜は眠らせてやるつもりはないからな…?覚悟しておけ、紘」

ああもう、食事どころじゃない。










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